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日本シリーズと地元愛。

ああ、これはもう帰るわけにはいかないなあ。

上京して間もなく、そう思ったのを憶えている。ぼくは福岡県出身の、そう呼ぶのが慣例だとするなら九州男児だ。大学も福岡だったし、最初の就職先(メガネ屋さん)も福岡だった。その後、無職期間を経たのちにライターの職を得て上京するのだけど、こりゃ帰るわけにゃいかんよなあ、と思ったのだった。

福岡にいたころ、地元のテレビや雑誌にはたくさんのローカルタレントさんや、ローカル文化人が出演していた。そして彼らはみな「むかし俺は東京でブイブイ言わせてたんだよ」的な風を吹かせて歩いていた。そんなことはないだろう、と若いぼくは思った。東京で通用しなかったから、通用しなくなったから、居場所を失ってしまったからアンタはここにいるのだろう。だって、たとえばタモリさんはそんなこと言わないし、ここにもいないよ。向こうで今日も、いいとも出てるよ。なんてことを思って「東京帰りの地元民」を、けっこう露骨に嫌悪していた。なりたくない大人の代表格だった。

で、なんだかんだで東京に来てしまった自分、しかもライターなんて職業を選んでしまった自分を鑑みて、これはもう帰るわけにはいかないなあ、と思ったのだ。どういう理由にせよ帰ってしまったら、おれはあの人たちと同じ人間になっちゃうんだもんなあ、と。


そういう若さと虚勢と劣等感の入り混じった感情への評価はさておき、当時ぼくはおおきな気づきを得たのだった。

帰らないことを前提に生きていくおれは、今後あんまり地元愛を語らないほうがいい。最初にそう思った。周囲から見てウザイからではなく、自分の心のために、過剰な地元愛を疑っていったほうがいいと、そう思った。

「東京のひと」になる必要はまったくない。けれども、いつも地元を見て、地元を考え、地元の素晴らしさを語っているようなひとは、どこか弱いのだ。無条件になにかを愛すること、つまり「疑うことのできないもの」を持っていることは、どうしても弱さにつながってしまうのだ。愛って、うかつに近づくとやばいことになっちゃうぞ。ぼくはいまでも、そう思っている。


日本シリーズでホークスが勝ったとか、最近「あご」入りのダシが流行っているとか、おいしいとんこつラーメン屋さんが東京にも増えたとか、東京のスーパーマーケットでも「ブラックモンブラン」を見かけるようになったとか、華丸大吉さんの活躍がめざましいとか、そういう知らせにいちいち喜ぶ自分がいる。福岡出身というだけで信用しちゃいそうになる芸能人も、なんだかんだで多い。それはもう、しょうがない。犬がしっぽを振るのは「愛」のせいではないように、ぼくだって地元愛の結果として喜んでいるのではなく、無意識にゆらゆらしっぽを動かしてしまうのだ。


ということでホークスのみなさん、日本シリーズ頑張ってください。

熱心にニュースを追いかけ、ものすごく応援しているというほどのファンではないのですが、みなさんが勝ってくれるとぼくのしっぽが動きます。