引退と現役続行のはざまで。

先週末、ボクシングのWBCスーパーバンタム級チャンピオン、長谷川穂積選手が現役引退を発表した。引退会見で語ったことばを、いまもずっと噛みしめている。

35歳。軽量級の選手としては、当然引退を考える年齢だ。9月の世界戦で世界チャンピオンに返り咲いた彼は、自分の動機に問いかけた(以下、日本経済新聞電子版より)

長谷川「(現役続行を)悩んでいた時期に、自分がボクシングを始めた理由を考えていた。その理由がお金持ちになりたいとか、有名になりたいとかであれば、試合をすればお金ももらえるし、メディアにも取り上げてもらえるので、(次の試合を)やっていたかもしれない」

そして、こう結論づける。

長谷川「でもボクシングを始めた理由は、自分が強いかどうか、強いならば、どれくらい強いのかを知りたくて始めたのを思い出した。前回の試合をこなしたことで、僕の中で強いか弱いかの結果が出た。これ以上その答えを探す必要がなくなったし、これ以上続ける理由もなくなった

かっこいい人だなあ、と思うと同時に自分自身について考えた。


おそろしいことにぼくらは「引退」という選択肢を持っていない。自分が強いのか弱いのか、いいのかダメなのか、自分なりの結論が出たとしても、そこで「じゃあ」とグローブを置いてリングを去るわけにはいかない。リングということばを比喩的に使うと、なんだか大仰でヒロイックな話になってしまうのだけど、いわゆる「引退」ができない。何億・何十億のお金を手にして南の島でリタイア生活、みたいな話も本質的には引退しているわけではなく「勝ち続ける姿」としての理想像、夢物語なのだと思う。

とはいえ、なにかを極めていったり、ぼんやり掲げていた目標をおおきく超えるような成果を達成したり、おかげで自分が身を置いてきた世界が色彩を失っていくような感覚をおぼえてしまったとき、「ここはもういいかなぁ」と感じることはあると思う。これ以上の「勝ち」はないし、あとは過去の自分に負け続けるだけじゃないのかなぁ、と。

このとき、心を健全に保つために必要なのが、「勝てる場所を見つける眼」だと思う。

鋭さ、熱量、勢いで考えたら、間違いなく「あのときの自分」には勝てない。けれどもここ、この一点に関しては、いまの自分のほうが勝っている。あのときには見えていなかったものが見え、あのときには感じることのできなかったものを感じ、ここの部分においては明らかに成長している。「いま」がベストだし、それはもっともっとよくなっていく予感がある。



たぶん、サッカーの三浦知良選手やテニスの伊達公子選手は、そんな「眼」を持っているから、いまも現役を続けていられるんだと思うんです。年齢と闘うとか、限界に挑戦するとか、そんな簡単な話じゃなくって「いまの自分のほうが優れている部分」を見つけているんですよ、きっと。それだけしっかり、自分と向き合っているんですよ。

「あのときの自分」には勝てない部分があり、「いまの自分」のほうが優れている部分がある。あたらしいモノサシを、もっと目盛りの細かいモノサシを、分度器みたいに違ったものを測れるモノサシを探すこと。くじけそうになったときこそ、忘れずにいたいです。


スポーツ選手の引退は、いろんなことを考えさせてくれる。

彼らはいつも、人生の先輩だ。

郷に入ってはひろみに従え。
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古賀史健

思考

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