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紹介者、という仕事。

検索したけど見つからなかったので、記憶にまかせて書く。

いまから15年ほど前のこと。ある芸人さんが「ガッツ石松の珍言・迷言」を歌にして、それなりにヒットしていた。もともとガッツ石松さんや長嶋茂雄さん、村田英雄さんらの真偽不明な(というかほぼ創作の)珍言・迷言を持ちネタのひとつとしていたビートたけしさんは、彼を見て「もったいない」と言った。「ああやって1本のネタにしちゃったら、ブームになって、消費されて、それで終わっちゃう。ガッツさんみたいな人は、みんながときどき小出しにしながら、長く遊ばなきゃもったいないよ。もうこの歌ができちゃったことで、ブームが終わったら誰もガッツさんネタで遊べなくなっちゃうんだから」。大意としてはそんなことを、たけしさんは言っていた。

出版の仕事をしていて、似たような「もったいない」を感じる機会は多い。


とても魅力的な著者がいて、その人の魅力は「本」というパッケージで伝えるのが最適なのに、せっかく出版した本がそのクオリティに達していない。本を出すことによってむしろ、著者の魅力を殺し、著者の可能性を殺してしまっている。著者を薄っぺらくてつまらない人にしてしまっている。これはもう、とんでもなく「もったいない」話である。

端的に言えばこれは編集者の責任なのだけど、そういう編集者としか出会えなかった著者の「運」にもまた、一定の責任があったと思うしかない話でもある。編集者とは「紹介者」でもあり、「誰に紹介されるのか」によって、その著者の魅力はプラス100にもマイナス100にもなってしまうのだ。


きのう、「たられば」さんが枕草子を語る、というイベントに参加した。

「たられば」さんの本業は編集者である。残念ながらぼくは「たられば」さんと一緒にお仕事をした経験がなく、彼がどのような編集者なのか、ほんとうのところはよくわからない。けれどもきのうの「たられば」さんの、その紹介者としての敬意と愛情、理知と分別とを見るにつけ、清少納言という女性は、1000年の時を経て最高の編集者に出会ったんじゃないか、と思った。うまく伝えることはむずかしいのだけど、無粋なぼくがそんなことを思ってしまうくらいにロマンチックな空間だった。

きのうのイベントがすばらしかったのは、「たられば」さんが枕草子に詳しかったからではなく、清少納言や枕草子への愛が深かったからでもなく、なににも増して彼がほんものの「編集者=紹介者」だったからだよ。久しぶりにイベントの場でそういう編集者を見たよ。

もちろんライターも「紹介者」のひとりであり、ぼくは自分のことを編集者でもあると思っている。

枕草子に国語教科書レベルでしか触れてこなかった読者としてだけでなく、ひとりのライター・編集者としてもおおいに刺激を受けるイベントだった。これからもたくさんの人の「紹介者」となっていくはずの自分に、活を入れることができた。


ほんとに犬顔の「たられば」さん、そしてあの場を実現したほぼ日の学校のみなさん、どうもおつかれさまでした。ぜひ、続きの場を。