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わたしの国立競技場。

さきほど、長い長い原稿をひとつ、書き終えた。

重厚ではないものの、長大であることには疑念をはさむ余地のない原稿だ。こういう長さの原稿を書くとき、とくにその序盤あたりを書いているとき、ぼくは毎回戦慄する。

「これ、ほんとうに終わるのだろうか」

こんな調子で書いていたら、いつまでたっても終わらないんじゃないか。この段階でこれだけ疲れ果てているのに、その5倍や6倍の原稿を書き上げるなんて、どう考えても無理なんじゃないか。ライター生活20年以上、本だけで数えてもおよそ100冊を書いてきた中年でありながら、いまでも毎回そう思う。

マラソン競技がそうであるように、一定の距離を超えた課題をクリアする際には、疲れも痛みも時間感覚も忘れて無になる瞬間が、いわゆる「ハイ」になる瞬間が必要だ。その忘我があってようやく、観客の待つ競技場が見えてくる。ここでの観客とはもちろん、編集者だ。

沿道での声援、中継地点でのスポーツドリンク、あるいは叱咤激励しながらの併走。そういうわかりやすいサポートがぜんぶ無駄だとは言わないけれど、編集者がやるべきいちばんの仕事は、自分自身が「国立競技場」になることだと、ぼくは思う。期待に胸を膨らませるスタート地点であり、やさしく迎えるゴール地点でもある国立競技場が、理想の編集者だ。「はやくあそこに帰りたい。あの大歓声に包まれたい」と思わせるなにかが、編集者には必要なのだ。

それはたとえば「あいつが驚く顔が見たい」でもいいし、「あいつがよろこぶ声を聞きたい」でもいい。あるいは「ここでどんなに無理をしても、あそこに行けば万全のケアが待っている」でもいいだろう。ストップウォッチを片手にコーチをきどる編集者は、たぶんフルマラソンを走ったことがないのだと思う。


ああ、長大な原稿を書くことについての考えを書こうとしたのに、なんだか編集者の話になっちゃった。

とりあえずこれからざざざざっと推敲し、次の(ほんとうに長大な)仕事にとりかかります。