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こんなふうに書いている。

ここになにかを書くとき。あるいはお仕事の原稿を書くとき。

うーん、どうしようかなあ、なんにも浮かばないなあ、最近なんかおもしろいことあったっけ? みたいに考えあぐねていく途中で、ふと「あ、これで書けるわ」となる瞬間がある。

核となるメッセージや、なんらかの結論が浮かぶのではない。うまく伝わるかどうかわからないけれども、ちいさな「転がし」が浮かぶのだ。たとえば「犬の話をこんなふうに進めていくと、ここでコロッケの話に転がるよな」みたいな感じだ。あとはコロッケの話を掘っていってもいいし、ダイスを転がせ。コロッケから別のなにかに転がしてもいい。一度転がりはじめた犬、またコロッケは、いくらでも転がっていく。

そして転がりゆくさまを丹念に、リズミカルに追っていった文章は、それなりのおもしろみを獲得することになる。それは書いてる自分が「へぇー、こんなふうに転がっていくんだ」とよろこんでいるから、おもしろくなるのだろう。

じゃあ、いったいどうやって犬をコロッケに転がすのか。その着想はどこから生まれるのか。ひとはそれをひらめきと呼んだり、センスと呼んだり、才能と呼んだりするのかもしれないけれど、たぶんそういうものじゃない。

一枚の写真を見たときに前後の物語を想像するような、一枚の写真に永遠を見るような、そんな「おもしろがり」の観察に長けたひとが、自分の着想を右に左に転がしていくことができるのだ。


おもしろい人とは、おもしろがりの名人なのだ。

……みたいな結論もまた、書きはじめる前にはまったく想定していなかった転がりだったりしておもしろい。