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できることと、できないこと。

「つまりこれは、AIによる医療革命なんですよ!」

出勤途中の渋谷駅、ひとりのおじさんが携帯電話に向かってそう叫んでいた。おじさんの素性はわからないし、もしかしたら人工知能の専門家なのかもしれない。どこかの大学教授だったり、研究者あがりのCEOだったりするのかもしれない。だからおじさんのことは別としながらも、「ああ。いまこのことばを使ってなにかを言った気になったり、小銭をかすめ取ろうとしたりしている人、いっぱいいるんだろうなあ」と思った。

とくに外来語にその傾向が顕著なのだけれど、人は「あたらしいことば」を使うと、それだけでなにかを言った気になりやすい。あたらしいことばとは、つまり「おぼえたてのことば」だ。ほんとうの理解や咀嚼が本人のなかで進んでいる確率は低く、ただ言いたいだけだったり、それでごまかしたいだけだったりすることが多い。なのでぼくは「あたらしいことば」を使う人に会うと、できるだけ注意深くそれを聞くようにしている。そしてまた、自分がそのことばを使えるようになるまでには、けっこうな時間がかかってしまう。

冒頭に紹介したのがたまたま今朝目撃したAIおじさんだったため、あたかもぼくが「AIを語る人」すべてを警戒しているように聞こえるかもしれないけれど、それは違う。ぼくのまわりにもAIを真剣に勉強している人(たとえばcakesの加藤さんもそのひとりだ)は多いし、AIにかぎらず先端技術に飛びついて格闘する人たちのことは、純粋にすごいなあと思っている。


以前、偶然のめぐりあわせで、おそらくは日本のAI研究の第一人者と目されているであろう先生と会食させていただく機会があった。好奇心と猜疑心のかたまりみたいな編集者さん(ほめてます)がセッティングした会食だ。当然ながら場の話題はAIになる。

とても印象的だったのは、その先生が「できないこと」から先に語っていったことだ。AIを使えばあれもできます、これもできます、こんな社会が待っています、という希望と楽観に満ちた夢物語をするのではなく、「いまはまだ、これはできません」「これもできません」「この用途であれば、実用が見えています」と、かなり控えめにAIの現在と近未来を語っていた。信用できると思ったし、この姿勢は見習っていきたいと思った。


ほんとうに自分を知り、その現在地を知っている人にとっては、いまの自分なんて「できないことだらけ」なのだ。けれどもその「できないことだらけ」の自覚は、まっすぐに未来を見据えている証拠でもある。

いまのぼくはかなり「できないことだらけ」なんだけれど、その自覚がなくなってしまったら、たぶん好奇心も成長も止まるのだろうと思っている。