誰が言うかでも、なにを言うかでもなく。

梶原一騎原作の『夕焼け番長』というマンガがある。

正確には、ある「のだそうだ」。読んだことはない。テレビアニメ化された人気作でもあったようだが、さすがに生まれる前の放送で、見ていない。また、今後見たり読んだりするつもりもない。

そんなマンガの存在を知ったのは、前田日明という格闘家・プロレスラーのおかげである。UWFという団体を率いていた前田日明は80年代、新日本プロレス時代の先輩にあたる長州力のことを、「言うだけ番長」と揶揄していた。むかし『夕焼け番長』って梶原一騎のマンガがあったけど、長州は「言うだけ番長」やな。悔しかったら、やってみろって。そんな感じで前田日明は長州力を(メディア上で)からかい、ぼくのような純真なプロレス少年は「そうだそうだ!」と拳を振り上げていた。


ことばにまつわる仕事をしながら、また10年・20年前とは比較にならないほどの情報に飲み込まれながら、しばしば突きあたるのが「誰が言ったか&なにを言ったか問題」である。

知的で、高潔で、公平な人間のありかたとしては「誰が言ったかではなく、なにを言ったか」で物事を判断するのが理想なのだろう。けれども現実問題としてつくづく思うのは、けっきょく「なにを言ったかではなく、誰が言ったか」のほうが優先されるということだ。たとえばの話、流行りのビジネス書を何冊か読み、出典さえあやしい「偉人の名言bot」的なものをフォローし、検索技術を鍛え、ジョブズやベソズのことばを諳んじたりしておけば、もっともらしい「なにか」を言うことは誰にでもできる。ものの性質として著作権フリーでしかありえないことばの価値は、どこまでも軽くなる。そうしていつしか「誰が言ったか」の重みが増す。これは、いいとか悪いとかいう以前に、もはや「そう」としか言いようのない時代の流れだ。

と言いながら最近、もう誰が言おうが、なにを言おうが、どうでもいいじゃねえか、という気もしてきている。

いま、ぼくが誰かに信頼を寄せるとき、ほとんど唯一の頼りにしているのは「なにを言ったか」ではなく、「なにをやってきたか」だ。なにもやっていない人、できていない人、やろうとさえしていない人、やるやる詐欺な人のことばには、ピクリともこころが動かない。

逆に言うと、大層なことは言わないけれど、寡黙なまま黙々となにかをやり続けている人、やってきている人に対しては、たとえ耳に立派なことばが聞こえてこなかったとしても、尊敬と信頼を寄せる。


こうして毎日ブログを書いたり、ツイッターでつぶやいたりしていると、気づかぬうちに「言うだけ番長」になりがちだ。「言うだけ」でも得られてしまう拍手に、酔っぱらってしまいがちだ。


なにを言ったかではなく、誰が言ったかでもなく、なにをやってきたか。

やんなきゃね。

桃栗三年、カキうまいねん。
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古賀史健

古賀史健(2018)

古賀史健の note、2018年分です。
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やるときはやるだけです。ね。
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