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はずれくじの海に飛び込もうよ。

もう20年以上前なのかなあ。

先輩の影響で、競馬をたのしんでいた時期がある。その延長で、というわけでもないのだけど、馬主さんの本をつくったこともある。そしてその馬主さんに連れられ、何度も競馬場に足を運び、サラブレッドのセリ市(セレクトセール)まで同行取材したこともある。

だから、なのだろうか。

ぼくは本屋さんの魅力を「競馬場のパドック」にたとえて話すことが多い。なけなしの金を握りしめて、競馬場(本屋さん)に赴く。悠然とパドックを歩く出走馬(本)をしげしげと眺める。「こいつに賭けてみよう」と、どこかの段階で決める。事前に仕入れたデータを重視して決めることもあれば、パドックでの直感で決めることもある。

いまで言えば、誰だろう。たとえば小泉悠さんなんかは、(ぼくのなかで)もはやテッパンの人気馬だ。仮に1500円の馬券(本)を買えば、間違いなくそれ以上の見返りが得られる。しかし事前の期待値が高まりまくっているがゆえ、「めちゃくちゃすげえ!」になるはずの感想も、「やっぱりおもしろい」くらいで落ち着くデメリットが、テッパン馬券にはつきまとう。

一方、その作者や著作の存在も知らず、けれどもパドックでの「なんかおもしろそう」の直感で買った本が実際におもしろかった場合、それは万馬券となる。

なので本屋さんに足を運ぶときのぼくは、テッパンと思われる本と、万馬券になるやもしれぬ本を適宜組み合わせて買うことが多い。


で、本題はここからなんだけれども、毎週のように馬券を買う数年間を過ごして思ったのは、競馬が「はずれくじ」によって成立している、という事実である。どんなにがんばってスポーツ新聞の競馬欄を追っても、馬柱(詳細なデータが書き込まれた出走表)を読み込んでも、「はずれくじ」ばかりを引いてしまうのが競馬というものであり、それだからこそ「あたりくじ」の喜びも大きい。

これは本屋さんで買う本、レコード屋さんで買うレコードなどでも同じことが言えて、基本「はずれくじ」なのだ。当てずっぽうにジャケ買いなんて言って買うものは。そして100本引いた「はずれくじ」のなかに、ようやっとひとつの「あたりくじ」を見つける。それが本ってものじゃないかとぼくは思っている。

ちなみにここでの「あたり」や「はずれ」はまったく主観によるもので、たとえば太宰治を読んで「はずれ」を感じる人だって当然いるはずだし、その「はずれ」はなにも間違っていない。自分にとっての「はずれ」があり、自分にとっての「あたり」があるからこそ、おもしろいのである。


すこし前まで「このごろどうも『答え』や『正解』を先に知りたがる人が多いよなあ」と思っていたんだけども、最近になってちょっと違うような気がしてきた。答えや正解を求めているというよりも、みんな「あたりくじ」を求めているのだ。「はずれくじ」を避けたがっているのだ。

「はずれくじ」の海に飛び込もうよ。

「あたりくじ」は海の底に、落ちているんだよ。

そして本が好きな人ってのはたぶん、「あたりくじ」を引くことではなく、「その海を泳ぐこと」自体が好きなんだ。