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論理でもなく、共感でもなく。

こういうものをだらだら書いておきながら言うのもへんだけれど。

ライターとしてのぼくは自分の原稿について、わりと論理的であることを意識している自負がある。文章の書き方みたいなものを問われたときも、いちばん最初に挙げるポイントはたぶん「論理的であること」だ。その考えが間違っているとは、いまでも思わない。

とはいえ最近、それだけじゃ弱いよなあ、と思う機会が増えてきた。

たとえば、なんだろう。歩きタバコとか立ち小便などについて、いまの日本ではそれがよくないことだと論理的に説く必要は、とくにないように思う。こういう危険があるとか、こんなふうに迷惑だとか、これだけ不衛生なのだとか、いちいちデータを挙げたり実証したりしなくとも、ふつうの感覚として「だめだよね」が浸透しているように思う。

ところが、たとえば「多様性が大事」みたいな話に関しては、まだまだ理屈が、つまりは論理に頼った説得作業が必要で、けれども論理のことばで説得されると反発したくなる、という「作用・反作用の法則」が人のこころにはあり、なかなかむずかしい問題だ。


というわけで、「論理に頼った説得」の対立概念というのか、代替案として多くの人が語るのが「共感」である。共感型の文章だとか、共感型のコンテンツだとか、その手のことばを最近よく耳にする。

たしかに共感は大切な要素なのだけど、なんでも共感で片づけていいのか、という思いがぼくにはある。

共感とは要するに「情」だ。「理」の対立概念として「情」を置いているからこそ、共感型コンテンツみたいな話が出てくるのだ。

しかし、「情」をベースに論を展開させようとするとき、自分の主張を押し通そうとするとき、多くの場合それは「倫理」と結びつく。論理的な説得を避けようとした結果、倫理的な「だからわたしは正しく、あなたは間違っているのだ」に成りかわり、余計に息苦しく攻撃的な話になってしまう。


で、最近ぼくは思うのだけど「理」の対立概念は「感」なのだ、たぶん。

感覚だったり、直感だったり、感性だったりの、「感」。そのレベルで理解が得られ、賛同が得られたとき、ようやくそれはコモンセンスとなるのではないか。言わずもがなの、ロジックもデータも実証もいらない話になっていくのではないか。

なので、少なくともこれからのぼくに必要なのは、論文的な「理」の力ではなく、私小説的な「情」の力でもなく、詩人のような「感」の力、なのだと思っている。

このごろずっと、詩人にあこがれている。そして詩の正体を知りたいと願っているのだ。