見出し画像

わたしのなかの編集者はなにを語るのか。

たとえばライターが、つまらない原稿を書いてきたとき。

ふつう、編集者は修正の指示を出したり、細かく朱入れをしたり、あるいは自分で書きなおしてしまったりして、ひとまずは眼前の締切を乗り切ろうとするだろう。どんなにたくさん言いたいことがあったとしても、そのぜんぶを伝えてくれる編集者はなかなかいない。「これ以上言っても、この人には無理だろうな」と、いとも簡単にあきらめてくれる。そして困ったときの便利屋としてその人をキープしつつ、別のライターをさがす。

もちろんこれはライターが編集者に感じる「あきらめ」でもあるし、いろんな仕事のいろんな場面でくり返される光景だと思う。


世の編集者たちは業界のライター不足について嘆いているし、ぼく自身もそれは事実だと思うのだけど、同時に痛感するのは編集者の不足だ。業務としての編集にたずさわる人はたくさんいても、作家やライターを育てて(伴走して)いけるタイプの編集者は、いよいよ減ってきた印象がある。

誰かを育てようとするとき、その成長を期待するとき、根っこにあるはずのことばは、「きみならもっと、できるよね?」だ。現状の「ここ」をその人の限界だと思わず、もっとできるはずだと信じ、時間や労力を投じる覚悟だ。

もし、そのことばをかけてくれる人が周りにいなければ、自分で自分に語りかけるしかない。


きみならもっと、できるはずだよね?


いまでもぼくは、自分にそう語りかけている。編集者としてのわたしを、心のなかに置いている。そして数は少ないけれど、その目でぼくを見てくれる編集者も、何人かいる。自分も誰かにとってのそういう人間でありたいと、つよく思っている。