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「読書体力」と呼ばれるものの正体は。

ああ、いまだったらおれも。そう思えることがきのう、ふたつあった。

きのうはフランク・ザッパの命日だったらしい。1993年の12月4日にザッパは亡くなったらしい。当時、いちおう「えーーっ!」なんて驚いてみせて、またもひとり、個性的なギターヒーローがこの世を去った、R.I.P. みたいな顔をしていたのだけど、いまだったら言える。

ぼくはフランク・ザッパという人の音楽が、ちっともわからなかった。よくも悪くも「なんじゃこりゃ?」で、がんばって買った中古レコードが3枚あったけど、それとてトータルで5回と聴いていないと思う。もちろん、もう持っていないし、CDで買いなおすこともしなかった。そのへんも含めて、いまなら「じつはザッパのこと、なんにもわからなかったんだよ」と言えるけれど、当時はぜったいに言えなかったと思う。

また、もうひとつ「いまだったら」と思えることがある。

いまだったらおれも、ザッパがわかるかもしれない。彼がどんな音楽をやろうとしていたのかはともかく、どうして彼があれほど支持され神格化されていたのか、いまの耳で聴き返せばわかるかもしれない。

でも、その理解につとめる体力はたぶんなくなっているんだよな、と冷静に考える自分もいる。


読書でも音楽鑑賞でも映画鑑賞でもそうなのだけど、ひとつの予定調和もないような、未知なる領域からもたらされるそれを全身で浴びて、咀嚼と理解に七転八倒するのには、それなりの時間と体力が必要だ。

たとえばぼくの場合、ボブ・ディランという人の音楽を「わかった!」と思えるまで、こころの底から「かっこいい!」と思えるまでには、4年近くの年月を要した。それまでずっと、お経のように響くディランの鼻声を「これはいいんだ、いいんだ、おれにはまだわからないだけで、いいに決まっているんだ」と聴き続け、ようやく4年後に開眼した。

まあ、それは極端にしても、「難解」とされる本や映画や音楽を受け止めるのには体力が必要で、その体力の正体とは「時間」でも「集中力」でもなく、ただただ「変わる気」なんじゃないかと思う。

一冊の本を読むことで、人生を変える気があるか。これまで自分が受け入れてきた常識や価値観を、がらっとひっくり返す勇気があるか。つまりはこれまでの自分を全否定して、あたらしい自分に生まれ変わる気があるか。そういうことを問われるのが、難解とされる古典たちなのだと思う。だって、ボブ・ディランという人の音楽に心底「かっこいい!」としびれるためには、捨てなきゃいけない常識みたいなもの、いっぱいあるよ。


だからぼくは、「難解」とされる本や映画や音楽ほど、変わる気まんまんの若いうちに浴びておいたほうがよいと思うのだ。誤解や挫折も当然あるだろうけど、それも含めて自分の肥やしになるし。

ぼくも、ザッパはもういい気もするけど、これから最低でも何冊かは「変わる気まんまん」の姿勢で難解な古典を浴びてみたいと思っている。