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あたらしい杵柄を求めて。

むかし取った杵柄、ということわざがある。

過去の経験。むかしに仕入れた知識。あるいはその技能。これらが役に立ったり、それを自慢したりするさまを指して、「むかし取った杵柄」という。もちろん杵とは、もちをつく際につかう巨大な木製ハンマーみたいなあれのことであり、杵柄とはその持ち手、棒状の部分を指す。

と文章にしてまとめてみると、おかしな点に気がつくだろう。

杵柄が、あの棒が、いったいなんの役に立つというのか。せめて杵じゃないとおかしいだろう。杵であれば、それで気に食わない上司の頭を殴打するなどもできるだろう。いや、杵柄の棒でも殴打することはできるんだけれど、だったらいっそ「むかし取った棒」でいいだろう。……そういう、至極当然な疑問である。

しかしながら、ここでの「むかし取った」とは、棒としての杵柄を「むかしゲットした」という意味ではない。もちろん、「むかし盗った」わけでもない。もちつきの特殊技能(杵柄をリズミカルに振り下ろすテクニック)を、修得した。それが「むかし取った杵柄」なのである。


という話を持ち出したのは、「現役」について考えたからである。

老齢にさしかかった作家さんの最新刊を読む。内容にも書きぶりにも、ひどく落胆する。その人はむかし、すごかった。大好きだった。けれども現役の作家さんであるかぎり、最新刊それ自体で「おもしろい」や「おもしろくない」を評価するのが、その人への礼儀だ。輝かしい過去を思い出しながら「そうは言っても、すごい人だったんだから」と「いま」を避けて論じるのは、むしろ失礼なことだ。生涯に渡った評価は、現役から退いたあと、あるいは他界されてからなされるべきだ。……と、そんなふうに考えた。

作家さんにかぎらず世のなかには「むかし取った杵柄」で食っていける余裕が、いまも十分にある。年齢を重ねるほど自分のまわりに、それで食ってる人が増えていく。

そりゃあ、がんばった証だし、当然の権利であるように思っている人もいるだろうけど、ぼくは現役であるかぎり最新刊で勝負したいなあ。本のかたちじゃなかったとしても、いまの仕事で勝負したいし、いまの自分を見てもらいたいよ。ピカピカの、あたらしい杵柄を、手に入れたいよ。