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いちゃもんを言っちゃったもんね。

中学時代、卒業文集の寄せ書きに「光陰矢の如し」なる文言を見つけた。

みんなが「また集まろうね」とか「3年〇組、大好きだよ」とかお別れのことばを書き連ねているなか、サッカー部のキーパーだった友だちがひとり、ちいさな文字で「光陰矢の如し」と書いていたのだ。教養バカボンだったぼくはそのときはじめてこのことばを知った。知ったけれどもわからないので辞書を引いた。すると、月日の流れははやいものだ、といった意味の慣用句であることを知った。

さて。それでもぼくは教養バカボンである。ばかの浅知恵を働かせてぼくは思った。「光や陰が矢のように速いって、おかしいだろ」「だって、理科の授業で習ったぞ。あらゆるもののなかで光よりも速いものはないって」「言うなら逆で、矢は光陰の如しだろ」「一撃必殺のバケモノめいた弓矢について『光の如し』と形容すべきだろ」「まあ、そんな慣用句どこで使えばいいのかわからないけど」「まったく科学的素養のない時代のひとは困ったものだなあ」。

そして大人になったのち、光陰がぼくの思っていた「光と陰」ではないことを知る。光とは太陽であり、陰とは月であり、光は日であり陰は月である。すなわち光陰は「月日」である。そう、光陰矢の如しはなんらおかしな慣用句ではなく、正真正銘に「月日の流れは矢のように速い」なのだった。


思えばぼくは、こうやって「いちゃもん」をつけにいこうとして周辺事情を調べた結果、自分の天啓のごとくに発見したつもりの「いちゃもん」が恥ずかしいほどにばかの浅知恵であったことを思い知らされる、ということがほんとうに多い。

けれども、浅知恵レベルの「いちゃもん」を思いつき、その後に赤っ恥をかいたおかげで忘れられなくなる「光陰矢の如し」的な事象もまことに多く、なんの疑問も抱かないままにインプットするよりはずっといいことなのだと自分を慰めている。おかげでさまざまなことばについて、ぐぐっとおのれの体重をのせて書くことができるのだと。

「いちゃもん」とは、言いっぱなしの言いがかりに終わらせなければ、立派な好奇心なのだ。