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長編のあのころ、短編の季節。

連休中、ここをどれくらいの頻度で更新するか迷っていた。

もはや習慣になっているから、毎日なにかを書いていないと気持ちが悪い。書きたい欲がむくむく膨らんでくる。……なんてなことはまるでなく、この数日は note のことを完全に忘れて生きていた。いま書こうとしているのだって、猛烈になにかを書きたくなったからというより、ほかの息抜きが思いつかず、休憩するように指を動かしているだけだったりする。


最近、読書体力の低下をとみに実感している。

20代のころからぼくは、ドストエフスキーの五大長編を年に一冊ずつ読み返す、という習慣を設けてきた。5年かけて一周、10年かけてもまだ二周。何度読んでもおもしろいし、いい習慣であるように思っていた。ところがここ数年、それがちゃんとできていない。3年ほど前に『悪霊』を読み返したのが最後で、その後『カラマーゾフの兄弟』と『白痴』をそれぞれ何度目かに読み返し、頓挫した。

そしてこの連休、これだったらさすがに止まらないだろうと手にした『罪と罰』も、マルメラードフが酒場で愚痴っているあたりでもう、疲れてしまっている。読めばちゃんとおもしろいのに、どうにも止まってしまう。


代わりに最近おもしろく読んでいるのが、短編・掌編だ。kindle版を購入した太宰治の全集から、未読のそれを拾いつつ読んでいる。

とくに吉本隆明さんが折に触れて称賛している掌編「黄金風景」は、ほんとうにいい。

“ 太宰治はほかにも「満願」とか「きりぎりす」とか「令嬢アユ」とか「駈込み訴へ」とか、短編や掌編の傑作を書いていて、どれをわが古典として挙げてもいいほどだ。だがいちばんうるさくなく、短かく、倫理の匂いもあって完璧な作品は、この「黄金風景」かとおもえる。
 ここには、わたしたちが思春期を過ぎる頃には、もう汚染された空気にまみれて忘れてしまったような、初々しい内省力の鮮やかな描写がある。またわたしたちが一般に深刻だとおもったり、高度だとおもったりしている心の動きの世界が、単純だが根源的であるような心ばえに敗れてしまい、そのことから文学はもともとこんなところから発生したものだとおもわせる貯水池のあることを、読み手に喚起させる。”

<わが古典 太宰治「黄金風景」>  吉本隆明


書きながら、わかった。たぶん犬がわんぱくなあいだ、ぼくは自宅で落ち着いて長編を読む、という時間をつくることがかなわない。読書体力の低下だけではなく、犬がもたらす散漫力もまた、ぼくを長編から遠ざけている。いい機会だと思って、これまで(どちらかというと避けて通ってきた)短編や掌編を読みあさっていきたい。