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期待に応える自分であろう。

「みなさんのご期待に応えられるよう、がんばります」

いろんな人が、いろんな場面で語っているであろうこの言葉。最近になって自分も、ひしひしとその重要性を意識するようになってきた。わかりやすいところでいえばやはり、お仕事である。キャリアを重ねるにつれ、引き受ける仕事には一定の「期待」が含まれるようになった。あいつならおもしろいものを書いてくれるだろう。あいつならいい原稿に仕上げてくれるだろう。あいつなら売れる本をつくってくれるだろう。自意識の過剰があるにせよ、少なくとも20代のころよりはそうした「期待」込みの仕事が増えている。

で、最近思うのが仕事以外の、年齢に見合った社会人としての期待だ。

スーツを着ない職業に就いているせいもあってぼくは、基本的に「大学生のころと同じ服」を着て生きてきた。もちろん当時の服をいまでも着ているわけではないけれど、服を選ぶ基準というか、そのセンスは大学生当時と変わらず、「ややスポーティーなアメリカン・カジュアル」ほどの服を愛着していた。ジーンズをチノパンに履き替え、チノパンをスラックスに履き替えることは心の老化だ、くらいに考えてきた。

しかし、どうやらそれは違うぞ、と気づいたのだ。

48歳なら48歳という、自分の年齢を鑑みた「ちょっといい服」を着ること。それは心の老化でもなんでもなく、周囲から受ける「期待」の変化なのだ。もっと具体的に言うと周囲は、48歳の男性に大学生みたいなスウェット姿など期待していないし、ギラギラしたイタリアンスーツもたぶん、期待していない。ただ「小ぎれい」であることを期待し、つまりは清潔であることを期待している。そして相貌や体型の中年化したぼくみたいな男性が小ぎれいであろうとすれば、おのずと「ちょっといい服」を着ざるを得なくなる。


正直、若いころほどの「モテたい欲」も失われたこの年齢になると、「だったらもう、なんだっていいじゃねえか」と着るものに頓着しなくなってしまう。たしかに発想の出発点を「わたし」に置いていたらそのとおりなのだけれど、そこに「期待」という客観の目を入れることによって「もうちょっと小ぎれいにしよう」の気持ちも湧き上がってくる。そう、ただでさえ見苦しい存在だからこそ、おじさんはもっと身なりに気を配るべきなのだ。


Netflixの「クィア・アイ」を観ていると、そのことがよーくわかる。ほんとにいい番組だよなあ、これ。