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記録されたもの、記録しえないもの。

週末に風邪を引いたというのに、なんだか忙しくしている。

継続的に取り組んでいる仕事に加え、突発的な仕事が舞い込んでいるのもあるけれど、もうひとつ先週から今週にかけて、いくつものコンサートが開催され、せっせとそこに足を運んでいることもまた、気忙しさに拍車をかけている。この一週間だけでポール・マッカートニーの東京ドーム公演と両国国技館公演、そして宇多田ヒカルさんの横浜アリーナ公演に足を運んだ。来週もまた、別のアーティストのコンサートに行く予定でいる。

映画に関してはいつのころからか、劇場公開のタイミングを失してしまうことが増えてきた。むかし映画の道を志していたなんて恥ずかしくて口にできないくらい、劇場に足を運ぶ回数は減っている。ブルーレイやDVDで済ませてしまっている自分がいる。

レンタルビデオ黎明期に中学生だったぼくは、VHSでしか観たことのない映画がたくさんある。パッと思いつくところでいうと、チャップリンの映画はたぶん、どれもVHSで観たきりだ。劇場はおろか、ブルーレイでもDVDでも観ていない。

考えてみればこれはおそろしいことで、VHSでしか観ていないということは「ブラウン管でしか観ていない」と同義である。ぼくが液晶・プラズマに乗り換えたのは2002年の日韓ワールドカップのときだったので、それ以前に自宅で観た映画はすべてブラウン管での視聴だったのだ。

14型とかのブラウン管テレビで観ていた時代に比べたら、「映画館との差」はずいぶん縮まったよなあ、と思う。


一方、コンサートは違う。

たとえ100インチの8Kテレビみたいなものがあったとしても、専用の高級スピーカーを立てまくったとしても、「コンサート会場との差」はほとんど縮まらない。

リュミエール兄弟のむかしから、映画とは基本的に「記録物」なのだ。その記録される媒体が、フィルムであったり、磁気テープであったり、光ディスクであったり、ハードディスクであったりするだけで、保存・コピー・流布できるように記録されたものが映画だ。

比べてコンサートは、記録を前提としていない。その日、そのとき、その空間だけに流れる時間と音楽を全身で味わうのがコンサートの本質であり、原則として再現性がゼロのコンテンツなのだ。なので、仮に今後VR技術がアホほど発達して「目の前でミュージシャンが歌っているかのような」デバイスが誕生したとしても、それが「記録物」であるかぎり、コンサートの代替品になるとは思わない。だって、コンサートは「LIVE」なんだもの。


そういう意味でいうとコンサートは、演劇やお笑いライブ、スポーツ観戦に近いのはもちろんのこと、少なくとも映画よりはテレビの生放送に近いのかもなあ。元気があったころのM-1なんかは、完全に「LIVE」でしたよね。