バナナとおじさん。

「おじさんが若かったころはさぁ」

きょうもおそらく、日本全国のおじさんたちが、若い人をつかまえてはなんらかの「おじさんが若かったころ」の話をしている。携帯電話なんかなかったんだよ。女の子に連絡を取るときには、自宅に電話してたんだよ。お父さんが出たりしたらたいへんだったんだよ。会社でも新幹線でも飛行機でも、みんな煙草を喫ってたんだよ。そんな語り尽くされたおじさん話をしては、「おじさんだなあ」と思われている。

ぼくは子どものころ、父親の語る「お父さんが子どものころは」話が大好きだった。こんな遊びをしていたんだとか、こうして風呂を沸かしていたんだとか、こんなものを食っていたんだとか。

なかでも好きだったのは「バナナがどんだけ高級品だったか」の話だ。

りんごやみかんとはぜんぜん違う、あまくてやわらかくて香りの高い、バナナという食べもの。手に持って、皮をむいてそのまま食べるというスタイルも、まったくあたらしいものだった。バナナをはじめて食べたときの話は、何度もお願いして、何度も何度も聞かせてもらった。聞けば聞くほど、自分の眼前にある(なんの変哲もない)バナナが、すごいものに思えた。とびきりおいしいものに思えた。だからいまでもぼくは、バナナを食べると少しだけワクッとする。


おじさんたちの語る「おれが若かったころ」話と、父親のバナナ。いったいなにが違うんだろう。

きっとバナナは、自慢話でも苦労話でもそれにかこつけたお説教でもなく、単純な「うれしかった話」だったんだろうなあ、と思う。


年齢的にぼくも今後、若い人たちに「おれが若かったころ」の話をする機会は増えていくのだとは思うけど、できればなるべく「うれしかった話」をしていきたいな。そして、うれしかった出来事を、そこでの心の揺れを、忘れないようにしていきたいな。


長く生きてりゃ、いやなことも当然たくさんあるはずだけど、うれしいこともたくさんあるんだし、できればそっちを語るおれでありたいのです。