こんにちは、さようなら、ごきげんよう。

いったい何時間、そのままに過ごしていたのだろうか。

ちゃんと時系列に沿って書こう。昨日の朝、ぼくは隣町の病院に行った。診察と診断、お薬の処方を受けた。いつものことではあるものの、病院は混雑ぎみだった。病院を出たとき、すでに時計は正午をまわり、昼飯を求めるスーツ姿の勤め人たちは、うつろな目で町をさまよっていた。ぼくもなるべくうつろな目をしてテキトーな飯屋に入った。おろしロースかつ定食(上)を食べた。大根おろしは別添えがいいなあ、などと思いながらも完食し、やや急ぎ足で電車に乗り込み、会社へと向かう。時間が時間だけに通勤客もおらず、座ることはかなわなくとも十分余裕のある車内。ぼくはつり革につかまり、髪の長い女性の前に立った。女性は一瞬だけ顔を上げたものの、そのままうつむくと一心不乱にスマートフォンをいじりはじめた。ああ、スマホ社会。出版不況。などとひととおりの詠嘆をしながら自分もスマホをいじり、ほどなく電車は目的地・渋谷に到着した。そして改札につづくエスカレーターに乗ろうと足元を確認したとき、ぼくは気づいた。

股間のファスナーが全開であることに。

それまで、家を出てから一度もトイレに行っていなかった。つまりぼくは、おれは、ファスナー全開のまま医師の説明に神妙な面持ちで耳を傾け、やや不服そうな顔でおろしロースかつを頬ばり、うら若き女性の前に仁王立ちしながらスマホ社会と出版不況をなげいていたのだ。


ぼくは思った。

「社会」って、どっちのことだ?

とくに昭和の時代、ズボンの股間ファスナーを「社会の窓」と呼んでいた。気を利かせたつもりかお笑いの成分なのか、社会の窓が開いてるよ、などと声をかけていた。いまとなっては死語に近いことばだけど、それはまあいい。それより問題は社会だ。仮にファスナーが「社会の窓」だとした場合、その社会とはファスナーの外側にあるのだろうか。それともファスナーの内側を、社会と呼んでいたのだろうか。

普通に考えれば、社会は外側にある。ファスナーの外側には人びとの暮らしがあり、地域コミュニティがあり、国家がある。けれどもそれならジャンパーのファスナーだって「社会の窓」であるべきだろう。鞄のファスナーだって社会の窓だ。ズボンの、股間のファスナーだけを「社会の窓」呼ばわりするということは、ひょっとしたら内側のこと、すなわち下着とそれが覆うふくらみとを「社会」と呼んでいたのではあるまいか、昭和の先人たちは。

その窓の向こうには、おれの知らない「社会」がある。世界があり、極楽浄土が待っている。なんとDTチックな隠語なのだ、社会の窓は。


そんなことを考えながら、ぼくはそっと窓を閉じた。冷たい風が吹き抜けていた社会は、ふたたび密閉された温室へとその姿を変えた。

こんにちは、さようなら、ごきげんよう。

ごわついたジーンズの向こうから、社会の声が聞こえた気がした。

郷に入ってはひろみに従え。
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古賀史健