見出し画像

マナーは最後にやってくる

「C国の観光客は、マナーがよろしくない」

人やメディアを通じて、よく耳にする話だ。たしかに日本国内でも、海外の観光地でも、マナーのよろしくないC国の方々、ちらほら目にする。まいったなあ、と思うことはある。でも、それを笑っていられないと思えるのは、中学生のころに読んだ筒井康隆さんの『農協月へ行く』のおかげなのかもしれない。

ぼくが子どものころ、道には犬のふんがたくさん落ちていた。それを踏むことは、子どもたち共通の失敗談だった。

ぼくが子どものころ、電車や飛行機、会社のデスクでも、みんな煙草をがんがん喫っていた。灰皿に積み上げられた吸い殻は、時間の経過を示す格好の小道具だった。

ぼくが子どものころ、道路脇で立ち小便する大人はたくさんいた。その最中に犬に吠えたてられるドタバタは、漫画やコントの定番ギャグだった。

ぼくが子どものころ、空き瓶を拾い集めては酒屋に持ち寄り、いくばくかのお金をもらっていた。それだけ道に、空き瓶が落ちていた。

ぼくが子どものころ、商店には剽窃キャラクターをあしらった菓子や文具があふれていた。誰も咎めようとせず、ただ「パチモン」として流通し、消費されていた。

ぼくが子どものころ、パンツスーツを穿いているだけで「おとこ女」と揶揄される女性たちがいた。家事と育児のすべてを押しつけられた挙げ句、「なんの稼ぎもないくせに」と罵られる母親たちがいた。

マナーも、著作権も、嫌煙権も、まともな人権さえも、めちゃくちゃだった。ほんの20〜30年前の話だ。

経済が発展して、物欲を満たし、ファッションにも気を遣うようになり、そこで暮らすのが「おれら」だけでないことを知り、最後の最後についてくるのが、マナーと呼ばれる「自発的な共同体の運営ルール」なのだと思う。もしかするとC国の人たちは、『農協月へ行く』が刊行された70年代の日本に近い感覚で、旅の恥をかき捨てているのかもしれない。

なーんかね。日本はむかしからマナーのよい国だった、みたいな話を聞くと、人間ってものを忘れるのが早いんだなあ、と思うんです。ぼくみたいな若造が覚えている範囲でも、ひどいマナーだったんだもん。そして『農協月へ行く』みたいな本が残っていることのありがたさを感じ、おおきな話をすれば自由な言論空間のありがたさを実感するわけです。いまのC国に、こういう本はあるのかなあ、と。


もうひとつ言うと、インターネットというあたらしい国に生息するぼくらも、まだ「物欲を満たし、ファッションにも気を遣うようになり」くらいの段階なのかもしれないですね。30年後とかに、むかしはこんなにマナーが悪かったんだぜ、なんて言い合える空間になってるといいなあ、と思います。