ぼくが読みたい文章。

沼、という表現があるのを知ったのは、一昨年のことだった。

広辞苑が「湖の小さくて浅いもの。ふつう、水深5メートル以下で、泥土が多く、フサモ・クロモなどの沈水植物が繁茂する」と解説するところの沼については、もちろん知っていた。そうではなく、趣味や芸事の深みにはまり込んでいくさまを「沼」と呼ぶのだと、ぼくは一昨年に知った。たしか、伝聞のことばとして聞いた「海外ドラマは沼」なる台詞が、その最初だった。

長い原稿を書いているときのぼくは、完全なる「沼」の住人である。あたまの何割かが常時それに奪われ、五感の鈍りも甚だしく、見るもの聞くもの食べるもの、ぜんぶがうわの空だったりする。時速200キロの車を運転していると視野が数センチ四方にまで狭まる、みたいな話を聞くけれど、それに近い感覚なのかもしれない。


という状態に置かれているためだろう。こうしてなにか別のことを考えようとしても、やっぱり原稿や文章の話になってしまう。

ずっと以前、ぼくは「ゲスいことは書かない」というテーマで、ひとつ投稿している。

これはいまでもまったく変わらない思いなんだけれど、きょう少しだけ違う視点から考えることができた。読者としての自分が、どういう文章を読みたがっていて、どういう文章やその書き手を信頼するか、という話だ。


ぼくは「清潔な文章」が読みたいのだと思った。


文中におちんちんだのおしりだのが出てきても、まったくかまわない。血が流れても、傷口が膿んでも、死者が出てもかまわない。そういう単語レベルの話ではなく、書き手のかまえとしての「清潔さ」を感じさせる文章を、ぼくは読みたいのだ。

正義と結びついた「高潔さ」ではない。「いいこと」や「立派そうなこと」を読みたいのではない。むしろその多くは、不潔だったりするものだ。

書かれる内容とは関係ないところでの「清潔さ」に、ぼくは惹かれる。感覚的なことばだけど、自分の気持ちをいちばん的確に言い表せたような気がしている。


ぼくは清潔な文章を書いていきたいし、清潔な本をつくりたい。そのためにはまず、清潔な人間でありたい。

たとえ徹夜続きでフケが出ていたとしても。

馬の耳に壇蜜。
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古賀史健

古賀史健(2018)

古賀史健の note、2018年分です。
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コメント1件

素晴らしいです。
そして、そんな古賀さんに引っ張られてか、noteでは「ゲスい文章」をあまり目にしない気がします。
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