そしてわたしは牙を研ぐ。
窮鼠猫を噛む、ということわざがある。
右に左に逃げまわった挙げ句、ついに壁際まで追いつめられたネズミが意を決してぐるり。天敵のネコと向き合ったのち、放物線を描くように高々とジャンプしながら相手の鼻っ先にがぶり噛みつく。そんな場面をモチーフとした、絶体絶命のピンチにおいてのみ発揮される一種異様な火事場の馬鹿力的パワーを説明することわざである。
子どものころ、ぼくはこのことわざの「窮鼠」、つまり「きゅーそ」という音が好きだった。その緊迫した場面、イチかバチかの雄々しい行動に比べ、あまりにも腑抜けな「きゅーそ」の音。窮の字も鼠の字も知らなかったぼくは、窮鼠猫を噛む、のことばに接するたび、くすくす笑っていた。
もしかしたらおれは、鼠なのかもしれない。
別に村上春樹作品の彼についての話をしているのではなく、トムとジェリーの話でも、ウォルト・ディズニー作品の話でも、ブルーハーツのデビュー曲を語っているのでもなく、いつだっておれは窮鼠なのかもしれない。
もちろん鼠であるところのぼくを追いかけまわすネコは、締切である。もうさすがに切羽詰まった、壁際まで追いつめられて、右にも左にも逃げ場がない、ええい、ままよっ!
そんなふうに窮鼠猫を噛むパワーを発揮して毎回、なんとか締切を乗り越えているような気がする。逆にいうと、追いかけてくれるネコがいなければ、いつまでもごろごろしながらチーズをかじり、ぷくぷくに太るのがおれという鼠のような気がする。
きょう、ふたつの締切を延ばしてもらった。
窮鼠、難を逃れる。そんなことわざは存在せず、ちゃんとネコを噛んで物語を終わらせなければならないのである。