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わたしの味噌汁はあなたの味噌汁じゃない。

数年前、海外の犬番組にハマっていた時期がある。

カリスマと呼ばれる世界的ドッグトレーナーの名を冠したそのドキュメンタリーは、素行の悪さから貰い手のない保護犬をドッグトレーナー氏が見事に手なずけ、犬がほしいと応募してきた視聴者3組に対して簡単な面接・実技試験をおこない、選抜の末その保護犬を譲り渡す、という啓蒙性とエンターテインメント性にすぐれた番組で、ぼくは毎週たのしみにしていた。おれも早く犬と暮らしたいなあ、いま犬がきてくれたら、きっと幸せにするんだけどなあ、と思っていた。そんな、世界のどこにでもいる一視聴者だったぼくは、あるときおもしろい事実に気がついた。


たとえば家の前を、腹を空かせた野良犬が一匹、とぼとぼと歩いている。

アンケートをとったわけではないのでわからないけれど、おそらくこういう一文を読んだときの日本人は、立ち耳の犬を想像するのではないかと思う。柴犬や秋田犬のような、三角形の耳がピンと立った雑種犬の姿を。ところがどうも、欧米では違うみたいなのだ。欧米における典型的な保護犬・野良犬とは、垂れ耳がスタンダードらしい。サイズ的にも日本のそれよりやや大きめで、ちょうどラブラドール・レトリバーとピットブルを掛け合わせたような子たちが、典型的な保護犬・野良犬として登場する。

なのでもし、海外の小説に「家の前を、腹を空かせた野良犬が一匹、とぼとぼと歩いている」的な話が出てきたら、たぶんそれは垂れ耳の犬である可能性が高いし、逆に同じフレーズの書かれた日本人の小説が欧米圏に翻訳された際には——たとえ作家が立ち耳の犬をイメージしていたとしても——やはり垂れ耳の犬を思い浮かべつつ、向こうの読者は読むのだろう。

わたしの見ている『犬』と、あのひとが見ている『犬』は別の生きものなのだ。あのひとが飲む『味噌汁』と、わたしの飲む『味噌汁』は、ほとんどの場合が別の汁物なのだ。


世のいさかいのほとんどはコミュニケーション不全に端を発し、その不全の多くは「おれの味噌汁」しか知らず、認めず、想像できないことに原因があるんじゃないかと思う。


ちなみに、いまの犬と暮らすようになってから、ぼくのなかでの『犬』は完全に垂れ耳になっています。