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ぼくのG1レースと、その最終コーナー。

まいるチャンピオンシップ。

ほんとうに弱りきったとき、どうしようってくらい追い込まれたとき、「まいったなぁ」のかわりに唱える呪文だ。おやじギャグだと言わば言え。こちらはそれどころではない。いったい、なにがそれどころじゃないのか。なににそれほどまいっているのか。まあ、ご想像のとおり原稿が終わらないことなんだけれど、考えてみればライターになってから20年以上、ぼくは常に「原稿が終わらない」という状況のなかに生きている。

ひとつの原稿を書き上げれば次の締切が襲ってきて、それを書き上げればまた次の凶悪な締切がやってきて、そいつをやっつけてもまた新たな締切が立ち塞がって、いつまでたっても終わらない。感覚的にはずっと借金の催促を迫られているようなプレッシャーのなか、生きている。もちろん、すべての原稿が終わるときには「すべての仕事」が終わるときでもあるわけで、それは「職業人としてのぼく」が終わってしまうことを意味する。苦しいけれど、終わっちゃいかんのだ。


ぼくが「まいる」ときのパターンを、もう少し詳しく書いておこう。

原稿を書く人、あるいはなにかモノをつくる人ならわかってくれるかもしれないが、「予感」はあるのだ。これはきっとおもしろいものになるぞ、ものすごいものになるぞ、びっくりするくらいの原稿になるぞ、という「予感」はすでにあるのだ。

しかし手元の原稿(現実)と「予感」とのあいだに、その距離さえ測りかねるくらいのギャップがあって、どうすれば「予感」が現実のものになってくれるのか、皆目見当がつかない。いまの原稿も決して悪いものじゃないはずなのに「予感」してしまったせいで、そこを目指さざるを得ない。

そしてほぼ毎回、自分は「予感」を実現してきたはずだし、今回もきっと実現するのだろうという他人事めいた信頼はあるのだけど、過去の自分がどうやって「予感」を実現してきたのか、なにも憶えちゃいない。


そういうぐるぐるの底に落ちたとき、崖の上を見上げてぼくはつぶやく。


「まいるチャンピオンシップ」と。