積年の逆恨みが晴れた12月。

いろんなところで何度も書いたし、何度も思ってきた。

師走というこの時期のドタバタ感は、どうにかならないものか。そもそもなぜ、これほどにも師走は気ぜわしいものなのか。なんだか毎年この時期は、締切に追われてひーひー言ってる気がするよ。

「……毎年?」

自分が何気なく漏らしたことばをぼくは、見逃さなかった。そうだ、思えば24時間を1日とし、30日を1か月と考え、12か月で1年なのだと線引きすることで過去・現在・未来を把握しようとする、その区分というか、ループ構造がそもそもおかしいんじゃないのか。つまり「ここまでが2018年」という区切りを設けるからこそ、最終月である12月にありもしない「終わり感」が生まれ、締切的なオブセッションが発生するのではないか。だってたとえば、西暦2018年12月は、西暦24227月なのだと考えることもできる。数字の上ではすくなくともそうだ。その発想でいったら、来月は2019年1月ではなく、ただの24228月だ。そんなの誤差みたいなもんだ。「年」という概念の存在しない世界に行けばぼくも、師走の気ぜわしさだの、わけのわからぬ締切感だの、なにかが終わるさみしさだのを感じることなく、悠然と来月を迎えることができるだろう。


締切に追われる年末がやってくるたび、ぼくはそんな屁理屈を考えていた。ほぼ毎年にわたって「今月なんてただの24179月なのに……」みたいな泣き言をひとり、漏らしていた。

ところが、である。きのうの夜の帰り道、なんとなく来年のことを考えながらぼくは、「はじまるなあ」と思ったのだ。

思えば2018年という年は、元旦のはじめっから「2017年の続き」だった。けれども2019年はたぶん、「はじまりの年」である。もちろん年をまたいで抱えている仕事や原稿もたくさんあるのだけど、そういう具体は別にして、ぼくの目に映る2019年はかなり「はじまりの年」だ。

きょうという日が、きのうの「続き」であることは、ときに苦しい。

あしたという日が、あらたな「はじまり」だと考えると、それはうれしい。


西暦24228月だなんてバカなことをせず、2019年1月という「はじまり」をつくってくれた先人たちに、ようやく感謝したくなった。


※ 今年の note 更新は、本日がたぶん最終日です。来年もどうぞよろしくお願いしますね。

出る釘は浮かれる。
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古賀史健

古賀史健(2018)

古賀史健の note、2018年分です。
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