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中公ムック『歴史と人物・日本百名墳』「箸墓古墳は卑弥呼の墓か」を読んで

中公ムック「歴史と人物18」『日本百名墳』の「箸墓古墳は卑弥呼の墓か」を立ち読みしました。僕はX(Twitter)やThreadsで感想を投稿しましたが、noteでも投稿します。

トップ写真:奈良県東田大塚古墳(2020年10月撮影)


想像で語っているのではないか

記事の中で、橋本輝彦さん(纏向学研究センター)は、勝山古墳・東田[ひがいだ]大塚古墳が卑弥呼と台与の墓、箸墓古墳はその後の男王の墓、纏向型前方後円墳である石塚古墳・矢塚古墳・ホケノ山古墳は重臣の墓ではないかと述べています。

しかし、その根拠は纏向型が3基、巨大前方後円墳が1基、中間型が2基だからとしか読み取れませんでした。

古墳の種類別の数が根拠にはならないと思います。僕は橋本さんの想像を述べただけだと認識しました。

勝山古墳・東田大塚古墳・箸墓古墳が、卑弥呼→台与→男王の墓なのであれば、それぞれの年代差は20~30年ずつということになると思いますが、その年代根拠もありません。東田大塚古墳と箸墓古墳の築造前はともに布留0式古相段階とされています(歴博「古墳出現期の炭素14年代測定」(2011年)p135表1「東田大塚古墳」「箸墓古墳周辺7次」)。

橋本さんは、纏向学研究センターのトップである寺沢薫さんの見解に沿った説をつくったのだと思います。

邪馬台国近畿説では、昔から説明しやすいストーリーを想像で語ることが行われています。鈴木勉さん(工芸文化研究所)はその傾向に警鐘を鳴らします。

▶最近は、遺物の精緻な調査と逆方向に考古学を進めようとする動きが見られる。その一例として広瀬和雄氏の文章を引用してみよう
▶「…そもそも実証とは…テーマに関する多くの事実が、論理的かつ整合的に説明できることを言う。…前方後円墳を駆使して歴史を組み立てる試み、古墳時代のなかのより多くの要素を整合的に解釈する…」(広瀬和雄2011「体系的な古墳時代像を求めて」『季刊考古学』117号)
▶まるで物語を創り上げるように感じられる。はじめに語りたい物語ありきで、そこに遺物情報をはめ込んで説明する。使われる遺物情報は物語に都合の良い部分だけという結果は火を見るより明らかだ。そのような方法で構築された古代史像はどのような意味をもつのであろうか

『三角縁神獣鏡・同笵(型)鏡論の向こうに』(鈴木勉、雄山閣、2016年)

僕は鈴木さんの見解に強く共感します。

想像をそのまま伝えるメディア

想像に対し、何の疑問もなくそのまま紹介するメディアにも問題があります。政治や外交については、メディアは発表者(政権など)を批判する姿勢をとることが普通です。

ところが、古代史に関しては、メディアは新聞にしろ雑誌にしろ、発表者(考古学専門家)の説明を間違えないように伝えることに一生懸命になっていて、御用メディアになっていると思います。考古学専門家に対し、もっと疑問を投げかけてほしいです。

寺沢さんの考古学的手法は疑問

寺沢さんは、以下のように箸墓古墳の年代を推定しています。

  • 福岡県祇園山[ぎおんやま]古墳や津古生掛[つこしょうがけ]古墳など布留0式古相段階の古墳から、中国鏡(復古鏡群)が出土している

  • これらの中国鏡(復古鏡群)は3世紀第2四半期に製作されたと推定できる

  • 古墳に副葬されるまでのタイムラグを考えると、布留0式古相の古墳の年代は3世紀第3四半期後半と推定できる

  • 箸墓古墳は布留0式古相に築造された

  • よって箸墓古墳の年代は3世紀第3四半期後半であり、卑弥呼、台与の後の男王の墓である

たとえ、寺沢さんのいうとおり、中国鏡(復古鏡群)の製作が3世紀第2四半期と特定できたとしても(それも疑問ですが)、古墳に副葬されるまでの期間(楽浪郡・帯方郡への移動、倭国への流入・使用・副葬までの期間)は様々だったはずで、古墳の年代は特定できません。

中国鏡の製作年代から、古墳への副葬年代を推定しようとする考古学の手法に問題があるのです。考古学の常識は世間の非常識、といってもいいかもしれません。

僕の2023/5/26のnote記事で詳しく紹介しています。

#中公ムック #歴史と人物  #箸墓古墳 #卑弥呼 #邪馬台国


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