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魏志倭人伝は間違いだらけ:短里はなかった

卑弥呼の都がどこにあったのか、長い間、論争が続いていますが、実は、魏志倭人伝には、編者である陳寿なりの答えが書いてあります。 

▶倭人は帯方郡の東南にあたる大海の中にいる
帯方郡より女王国に至るまで一万二千余里である
▶男子は大人と子供の別なく、みな顔面と身体に入れ墨をしている
▶夏[か]の少康王の庶子は、会稽に封建されると…身体に入れ墨をした
その道程の里数を計算すると、会稽[かいけい]郡の東冶[とうや]県の東方にあるのだろう

魏志倭人伝 現代語訳※

入れ墨の風習や逸話のところに、一見唐突に女王国の位置情報が登場します。

会稽郡東冶県というのは、今の中国福建省の福州市付近です。その東方ですから、陳寿は女王国が台湾付近にあると推定したことになります(ここでは魏志倭人伝の「1万2000里」の記述に合わせて「女王国」と記載します)。

もちろん、女王国は台湾にあったわけではありません。陳寿は女王国の位置を誤解したのです。この記事では、陳寿の誤解について、以下を検討したいと思います。

  • 陳寿はどのように道程の里数を計算したのか

  • 女王国までの1万2000里はどこから出てきた数字なのか

  • 女王国の位置を誤解した結果、魏志倭人伝はどうなったか

結論を先に言うと、陳寿が誤解した結果、魏志倭人伝は間違いだらけになりました。間違いの多い魏志倭人伝を読んでも、女王国の位置は特定できません。邪馬台国問題は現段階では結論は出ないのです。

※魏志倭人伝の現代語訳:『魏志倭人伝の謎を解く』(渡邉義浩、中公新書、2012年)を参照し一部改変
※歴史書の原文:維基文庫
※トップ写真:吉野ヶ里遺跡北内郭=写真AC(卑弥呼の都のイメージ)


陳寿による道程の里数の計算

陳寿がどうして女王国の位置を誤解したかというと、以下のような情報を組み合わせて、道程の里数を計算したからだと思います。

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