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【十勝の若手農家が綴る 日常NOTE】 01 農業、家族、町の未来…大切なものでいっぱいな僕の頭の中


北海道 十勝にある人口4000人の町、浦幌町で家族4人で農業を営みながら暮らしています。山田 史弥(ふみや)と申します。
農業に興味がある方、地方への移住を検討している方など、僕の楽しくて大変で
愛おしい田舎暮らしについて、更新していくのでぜひ読んでくださいね。

家からすぐ近くの海で極寒の中、撮影。真冬はマイナス20度まで気温が下がります。


はじめまして、農家の山田史弥です

僕は1987年4月24日この世に誕生する。十勝にある田舎、浦幌町の生まれのため出産する際は、大体車で1時間かけて帯広の病院に行く必要がある。そんな環境下で空気を読まず、僕は急に破水してしまったため、焦った父 幸雄と母 恵智子は「とにかく早く!」という思いで、帯広の病院まで車を走らせた。普段1時間くらいかかるところをなんと、20分で到着してしまった。焦りすぎである。でも、そのお陰で僕は山田家の長男として生まれることができたので、生まれながらに親に大きな借りを作った感じだ。


幼少期の僕。くりっとした目は父親譲り。

山田家は僕のおじいちゃんの代(以下、稔じいちゃん)から農業を営んでいて、かれこれもう70年になる。先代の、幸雄は現在の慣行農法(化学肥料と農薬の使用を前提とした栽培方法)で農業を営んでいた。海が近いこともあり、下流に多くの畑を持つことになる。稔じいちゃんの時代は川や水路の整備もされていなかったため、何年かに1回は大きな水害で作物が流されていたらしい。そんな環境下であったが、幸雄の代まで農家のバトンを繋いでくれた。幸雄の時代は高度経済成長や人口増加の背景もあり、トラクターが導入されたり、農業が工業的な側面を持ち出す時代になる。
能率と効率の2つに重点が置かれた農家のスタイルに変化していった。
僕はこういう経緯の中、3代目の農家としてバトンを受け取った。


過去の水害被害


ご近所には酪農や畜産を営む方もたくさんいます。
THE 北海道な景色、どこを走っても絶景に出会えます。

今でも大切なものに出会えた幸運な幼少期


僕は、地元の新養老(しんようろう)小学校に入学する。
同級生は4人で、全員男の子。在校生は30人ととても小さい学校だったが、全員家族のように仲良く、学校行事も子供が少ない分、地域の大人も参加してみんなで学校を盛り上げてくれる、そんな素敵な大人に囲まれながら生活する6年間だった。
おじいちゃんおばちゃんの玉入れや、お母さん、お父さんの真剣なリレー、おじさんバンド、ファッションショー、美味しい焼き芋やそば、、今は覚えてはいないけれど、僕という人間を形成する上で絶対に影響している思い出が溢れている___そんな素敵な小学校だった。
卒業後、浦幌中学校に入学し、初めて同級生に女の子がいることになった。たくさん友達ができた。サッカーとスピードスケートばっかりやっていた。4歳から始めたスピードスケートは、元々やりたくて…というわけではなく、気がつくとスケート靴を履かされていた記憶。親曰く、寒いのがあまり好きではなかったはずの僕が、初めて冬の寒い中、長時間外遊びをしたのがスケートだったらしい。2個上の姉がスケートを始めると同時に、僕の長いスケート人生も始まっていた。小学時代はいいコーチとの出会いもあり、成績も良かったと思う。たくさんの大会で優勝したり、メダルをたくさんもらった。
 中学も全国大会で表彰台に上がれたことで、スピードスケートのトップレベルの選手になりたいと思い、地元の十勝を離れ、釧路商業高校に入学する。ここでの3年間もスケートしかしていない。初めて海外の遠征に行ったり、全国各地リンクのあるところを大会で巡った。高校のスケート部のメンバーとは今でもたまに飲みに出かけることもあるくらい仲がいい。

大学進学もスピードスケートを続けるために、東京の日本大学に進学する。全国から集まった素晴らしい先輩と同級生と後輩に囲まれて、人生で最も過酷で濃い4年間を過ごす。スピードスケートでオリンピック出場を目標に練習したが目標には届かなかった。けど、インカレでは自分の大学が日本一になることができた。本当に書き込めないくらいたくさん思い出がある。
スケートのおかげで、人としての礼儀や感謝の心、継続的な努力の素晴らしさと難しさ、仲間の大切さや他人と比較しすぎないこと、自分自身が自分をちゃんと評価することなど様々なものを得ることができたと思っている。

スピードスケート現役時代の写真。驚きのふとももの太さ!履けるズボンが少なく苦労しました(笑)

僕の1番のミカタ 「SYR」のこと


大学在学中にスピードスケート以外にやってみたいことができた。「教職に就きたい」という目標だ。僕の人生の節目節目には本当にいい先生に出会っている。そんな人になってみたかった。結局父の体調のこともあり、すぐに地元浦幌に帰ることになる。
地元に戻った後は、農業を継ぐが、意外と友達はいないことに気づいた。そんな中、地元の卒業生を集めて焼肉をする機会があった。懐かしいメンバーと再会して、本当にとても楽しくてリラックスした時間を過ごすことができて、とても嬉しかった。
「月に1回は集まりたいね!」となんとなく話した事をきっかけに『SYR』が発足した。
地元の新養老の頭文字をとって『SYR』、ちょーださいけどとってもお気に入りだ。
地元の若手農家と学校卒業者を中心とした仲間が今でも月に1度は集まり、新年会やキャンプ、飲み会や誕生日会などみんなで集まっている。
仕事の悩みから愚痴、くだらない話や将来のこと、街のことなど本当にいろんな話をみんなで共有できる今ではかけがえのない地元の組織となっている。

農業の未来に募る不安、そして可能性


大好きなSYRについてアツく語ってしまったが、話を農業に戻していく。
僕が家業を継ぐことは僕のおじいちゃんとの約束だったと思う。
僕が農家になってからのことをお話しする…と本当に長くなってしまうので、
今回は項目ごとに簡単にご紹介。
①父が2018年に他界。同時に事業主になり、弟の達弥と一緒に農業スタート
まずは、経営安定を目指しながら、規模を拡大していった。
長期的な経営を視野に入れると担い手不足による離農者が増えることとそれに伴い畑が空いてくる事は誰の目から見ても明らかだった。僕たちが受け皿となれるよう経営面積拡大と機械、設備の投資に踏み切る。

②事業主となった3年後、(株)アサヒ・アグリ・アクションを立ち上げる
自分自身も後継者が息子や娘というふうに家族に限られるのは今後難しくなるのでは?という思いと、僕の気持ちを繋いでくれるなら血縁は関係ないはずという希望を込めて、家族以外が継ぎやすいように会社名に自分の苗字や名前だけは入れない!と決めて、地名を社名の一部に採用した。

家からの見た朝日。さすが"朝日”という地区だけあって、美しい朝日・夕陽を見ることができます。
眠くて仕方ない朝も、クタクタにくたびれた夕暮れ時も僕を奮い立たせてくれます。

③2021年、食品加工会社を農家の若手の有志達と共にスタート
工業化する農業と食べものを作る職業の狭間で葛藤する中での決断だった。(株)FF工房 という食品加工会社を農家の若手の有志達と共に起こした。そして今も続いている。FF工房の名前の由来はfarmer(農家)とfisherman(漁師)、forest(林業)、一次産業同士が手を取り合い、浦幌産の何かを生み出したいと言う思いから始まっている。FF工房の有志の仲間にはそれぞれちがう思いや動機があり、皆違う境遇の中、互い協力し合えていることが本当にすごいことだと思うし、強みだと思う。
僕が食品加工にチャレンジした理由は、規模拡大に伴い能率と効率を求める作業が続く中で、ロボット化している自分自身がとても嫌になったからである。
食べ物を作っているはずなのに、自分が作った食べ物が最終的にどこの誰の口に入っているのか知らない、わからない。それがすごく虚しく寂しく感じていた。 僕が栽培している主要の農産物は甜菜、馬鈴薯、小麦、豆類などである。主要な農産物のほとんどは甜菜なら砂糖、馬鈴薯は澱粉、小麦は小麦粉のように粉物に変身することが多い。汎用性は高いが、直接人の口に入るまでの過程が多い。そのせいもあるのか少しずつ食べ物を作っているんだという自覚が薄れていった。

小麦の収穫時期の様子。小麦の発育が進みすぎるのを防ぐため、この時期は早朝から夜中まで収穫が続きます。


そんな感覚に慣れ始めていた頃、SYRで地元の催事に露店を出す機会があった。自分の畑から収穫した芋でフライドポテトを作り、地元の方に食べてもらった。みんな笑顔で「美味しい」と言ってくれた。中にはおかわりをする方もいた。そんな現場を目の当たりにした時、やっぱり農業っていいなと思えた。農業とはやはり食べ物を作ることだし、こんなふうに笑顔で食べてくれる人がいるんだと改めて実感した瞬間だった。
この気持ちを忘れてはいけないと思い、食品加工にもチャレンジすることを決意した。 FF工房では本格的なイタリアンから素朴な味の漬物まで色とりどりの商品が開発されている。着色料、保存料などの添加物も一切使用しないのがこだわりだ。ぜひご賞味あれ!

④有機農業やリジェネラティブ農法への挑戦のスタート
極端な経費高騰から、農薬・肥料に頼らない農法・技術・ノウハウを勉強しなくてはと思ったのがきっかけだった。具体的に勉強や情報の共有は有機農法に早くから取り組んでいる農家さんを見学しに行ったり、有機農産物を取り扱っている会社の方に講習などを紹介してもらったりしながら少しづつ勉強している。今はまだ有機認証は取得出来ていないが、2年後取得を目標にしている。有機の作物としては大豆、小麦、カボチャ、大麦などを予定している。
初めてのことばかりで思うような結果が出ないこともあるけど、新しい発見もたくさんある。従来の農法との融合を想像するだけで可能性をとても感じている。

有機大豆の畑の様子。猛暑の中、雑草抜きに苦労しました。

⑤アサヒ・アグリ・アクションの現在地
最後に僕がどれくらいの規模の農業を行っているか少しだけお話しする。
現在は嫁と母と弟の4人で120haを経営している。
120ヘクタールと言われても聞き馴染みのない人が多いかなと思う。
簡単に言えば広い、本当に広い!
例えるとこんな感じ。
東京ディズニーランドが2つ入る
野球場のグランドで言えば120個
距離で言えば1.2キロ四方
とにかくなまら広い!


次回も…続きます! ぜひ読んでくださいね


今回の文章では、僕自身を構成している農業を軸に、僕自身が始めたこと、身の回りで起こっていることについてお話ししました。
この世に生まれて36年。振り返ると本当にいろんなことがありました。
日々大切にしたいものが増えてきて、ただでさえ、家族と仕事のことで目まぐるしい日々なのに「農業や町の未来」のことで僕の頭の中はいっぱいです。
でも考えることをやめてしまえば、今ある可能性の種も芽が出ず腐ってしまいます。
僕は、体と心をしっかりと動かし続ける農業者でありたいと考えています。
拙い文章ですが、これから言葉に想いをのせて更新していきます。
どうぞよろしく!









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