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130 私がnoteをかく理由

みなさんは、どうしてnoteを始めようと思いましたか。
夢をかなえるため。文章を書く練習。自分用の備忘として。
いろいろな理由があると思いますが、どの理由も素敵です。

なにかを表現することは、やっぱり素敵。
表現することも、誰かの表現を知ることも人生を豊かにしてくれます。

私にも、noteを始めようと思った理由はあります。
それは、「平和の大切さ」を伝えたいからです。

これまで、こつこつとnoteを書き続けて一年と少しが経ちました。
書きながら意識していたのは、どんなページでもどこかに「救い」がある文章にすることです。そう思いながら続けたnoteは、私が思っていた以上に多くの方が読んでくださり、素晴らしいご縁もありました。

今回のページは、初心にかえって私がnoteを書く理由を文章にしたいと思います。

少し長文になってしまいましたが、なにかを感じていただけたら幸いです。


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私は、広島県広島市で生まれ育ち、本川小学校に通っていました。
本川小学校というと、聞いたことがある方もいらっしゃるかもしれません。
昭和20年8月6日午前8時15分、広島に原子爆弾が投下され、その爆心地から最も近い場所にある小学校です。

もちろん、平和学習に大変力を入れている学校でした。
教室には戦争の漫画、図書館にも戦争の読みもの。繰り返す平和学習。年に一度行われる「平和のつどい」という行事に、戦争経験者である語り部さんのお話を聞く会…。

しかし、小学三年生くらいまでの私は、平和がどうこうよりも、繰り返し見させられる戦争映画、アニメ、ドキュメンタリーに怯えていました。飛行機の音が聞こえるだけで、「もしかして爆弾を落とされるのではないか」と連想してしまうほどでした。(同窓会でこの話をしすると、飛行機の音が怖いという同級生はわりといました)
あまりにも衝撃的な映像に、平和を願う余裕はありませんでした。

しかし、小学四年生のときに転機が訪れます。
学校内にある平和資料館の中に展示してある遺品をスケッチする授業がありました。
それまでの私は、恐怖心からしっかりと資料館内の展示品を見ることはしませんでした。(平和資料館自体も被爆建物なので、入るだけでも私は恐怖を感じていました)

しかし、絵を描くことは好きだったので、スケッチ対象を選ぶために初めて一品一品と向き合ったのです。

ぼろぼろのモンペ、ぐにゃぐにゃにまがったガラス瓶、へこんだお弁当箱など、被爆したさまざまなモノたちが生々しく置かれています。
遺品なのだから、このモノたちの持ち主は…。


そんな中で私が選んだのは、銃。
熱線でへしゃげて錆びついた、ぼろぼろの銃です。
スケッチ対象を銃に決めたのは、学年で私だけのようでした。

銃の前に立って、真っ白な画用紙を広げます。
絵を描くとは、よく見て筆先に命を吹き込むこと。
そう教えられてきた私は、じっくりと銃を見つめ慎重に描き始めました。

鉛筆で線を引き、錆びついた色を何色で表現したらいいだろうと考えながら絵の具を眺めます。そのうち、胸にじんとかなしい思いが湧きました。

銃は目の前に音もなく横たわっています。
銃として使うことは、もうできないでしょう。
持ち主も、もういません。

私は目の奥が熱くなりました。
こんな…こんなちゃちな銃で戦争に向かおうとしていた人々がいたこと。
もしかしたら、その人たちは何かを守ろうとしていたかもしれないこと。

そんな誰かの記憶のようなものが銃から流れてきて、私は必死で涙をこらえました。
でも、手は止めずに、思いのままに筆を走らせます。

銃口に筆が辿り着いたとき、ふとこう思いました。

でも、この銃の持ち主は、本当に銃を持ちたかったのかしら。
この銃口を人に向けたかったのかしら。

その瞬間、私はこの戦争を忘れてはいけないと思いました。
誰かに銃を向けること。向けざるをえないこと。
その本当の意味がわかった気がしました。

そして、いつか私の方法で平和につながる活動をしたい、と強く思いました。
私になにができるのかは、わからないけれど、いつか…。

私が描いた銃の絵は、どこかに飾られて、返却されることはありませんでした。

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それから、しばらく時が流れました。
私は、やっぱり戦争映画や書物が苦手で、避け続けました。
戦争のことを思うと、小学生の頃に学んだ、どんな爆弾が落とされたのか、被爆者の主な死因はなにか、なぜ被爆者は皮膚がめくれたのかなど、目を覆いたくなるようなことで頭がいっぱいになるのでした。

平和を伝えたいと思う気持ちがある一方で、戦争がもたらした残酷な事実を受け止めきれていませんでした。


二十歳をすぎた時、祖母の法要で、初めて我が家の過去帳を見ました。
「うちにも過去帳があったんだ…」
そう思いながら、最初のページを開きました。
私の祖先は江戸時代嘉永のころから過去帳をつけているようでした。
しばらく文字を追っていると、1945年8月6日に二名の名前が書かれていました。
そのうちの一名は享年一歳と書かれていました。
私はそこで、過去帳を閉じました。

祖母が生きていたころ、原子爆弾のことは聞けませんでした。
学校でさんざん習っていたという傲慢と、ただ臆病だったからだと思います。
それをわずかに後悔したこともありますが、祖母から話そうとしたことはなかったので、話したくなかったのかもしれません。みんながみんな、語り部にはなれないのです。

大学生のとき、一度だけ勇気を出して戦争について(具体的にはヒロシマについて)の文章を書こうと試みたこともありました。
その時は、強い気持ちを持って資料を漁りました。
山ほど資料を集めて、文の構成も決めました。

でも、いざパソコンの画面を目の前にすると、全く書けませんでした。
指が動かないのです。

だって…私になにがわかる?

平成に生まれ、平和な世界しか知らない私になにがわかる?
そんな思いにとらわれて、真っ白な画面を見つめることしかできませんでした。
何度か挑戦してみましたが、一文二文書いたのち、自分に失望して、書くのをやめました。


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その後、広島大学に勤めているときに、被曝煉瓦を集める活動をされている方のお話を聞く機会がありました。

その方は煉瓦を集めて世界中の人に送り、戦争について(あるいは核兵器について)ご自身の考えを伝えていらっしゃいました。

その活動を知ったとき、平和の伝え方は、一つではないと気づいたのです。


私は戦争に関する直接的な内容を書くことはできません。それは、私が浅学非才であることと執筆力が乏しいからであることは間違いありません。しかし、私は平和学習を通して、あまりにも被爆者の「生の声」を知りすぎている。その声の奥にある思いは、あまりにも複雑で、私の力では到底表現しきれません。

たとえば、「日本は絶対負けない」と信じて、ご主人と息子さんを失っても気丈に銃弾を作り続けた女性が原子爆弾の威力を知ったとき。

私になにがわかるだろう?

私は、自分が経験していないことは書ききれない、と思いました。
どうしても創作になってしまう、と。

大学生の時に筆が進まなかったのも「これは事実なんだろうか」という思いが強かったからと感じます。

歴史とは、不完全な記憶が文書の不備と出会うところに生まれる確信※

この言葉が頭から離れなかったのです。

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今、私が暮らしているのは、平和な国であることは事実です。
明日のごはんはカレーにしよう。空が気持ちいいな。次の休みは読書をしよう。

全部、平和だからできることです。

明日実家に帰ってお母さんに顔を見せよう。友達は元気かな。メールを送ってみよう。この本、同僚が探していた本だ。売っているお店を教えてあげよう。

全部、平和だからできることです。

この確かな平和を伝えていくことで、「平和だからできることってたくさんあるな。それを壊して傷つけ合うなんて、ばかばかしい」と誰か一人でも思ってもらえたら。
そう思ったのです。

なんてことない日々の発見を表現して、生きているよろこびを伝える。
それが、私の平和につながる活動です。


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あの日、銃だけを残して蒸発した兵隊さん。
熱線で変わり果てた親友を助けることができなかった女の子。
圧焼死(崩れた建物の下敷きになり、身動きがとれないまま焼け死ぬこと)した家族を見つけて途方にくれた人。
涙も出ないような絶望の中、死体を踏み歩いた人。

人を人と思えなくなる。
そんなかなしいことが二度と起こりませんように。
今ある平和と命を大切にできますように。

今日という日がある喜びをかみしめながら、私はパソコンに向かいます。ペンを取ってイラストを描きます。

一人でも多くの人が「日々のうれしい発見」を通して、人を大切に思えますように。


これからも、よろしくお願いします。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

※ジュリアン・バーンズ著『終わりの感覚』より

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