私が"死ななかった"理由

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いくつかブログを読んで励まされたから、私も書いてみようと思う。

"私が死ななかった"理由。

死にたくなった ことがある。
今もよく死にたくなる。後遺症も残っていて、状況が切迫すると過換気症候群を発症する。けれど、現在死にたくなるのは、難解で複雑に絡みあった八方ふさがりに見える状況にすくんで投げ出したくなっていることを自覚できる
ことによって、自己を客観視できるからまだ軽い症状なのだと思う。
当時はもっと切実だった。今から見れば些細にも思えることに、追い詰められていた。でも、今でも思い出そうとすると圧迫感を感じて胸が苦しくなるから渦中にいる人間にとっては深刻な出来事ばかりであったことが理解る。

本当に追い詰められてられていた。ツラくてツラくてしょうがなかった私は"息をすること"を止めようとしていた。
どんな方法でもいい。居場所がなかった私は正直に「「ここ」に留まっていたくない」と考える。家庭にも教室にも街にも居残る理由がなかった。ので、夜毎様々な場所を彷徨っていた。何故彷徨っていたかは自分でもわからない(=説明できない、しずらい)。死にたくて死に場所を探していたのか、はたまた羽を休める留まり木、波止場となる居場所を求めて巡っていたのか。
周囲から見れば、異様な光景だったと思う。着の身着のまま飛び出した子どもが一人座っているのだから。
だから幼い私も巧妙に考えて行動していた。
一つの場所に留まり続けないこと。
いかにも、保護者を待っている風に装うこと。
でなければ、そこに用事があるようにように見せかける行動を心がけること。(トイレに行く、本・掲示物を読んでいる振りをする、散歩するetc…)
声がかけられないよう、十分に用心して、雑踏が隠れ蓑になるように、人が大勢いる場所を選ぶ。(具体的には私の場合、主な場所は図書館、スーパー、コンビニ、公園のベンチ、デパートの休憩所、バスの停留所、川の欄干など…。限りのある、小遣いの範囲内でやりくりしていたから大変だった。)矛盾した行動。当時を俯瞰して解説するならば、理由は三つ。一つは声をかけられたときに一人でいる理由が説明できないから。一つは声をかけられた後、メンドウなことになるから。もう一つは声をかけられた途端に自分のミジメさを実感するから。見つかりたくなかった。もし 独り でいることを他者に認識されたら、恥ずかしくて今ここに存在していたくなくて消えていなくなってしまっていただろう。
いろんなものから私は必死で逃げていた。

ある日、いつものごとく、川の流れをぼんやりと見つめていた私は、衝動的に「川の中に入って」みたくなる。欄干から階段を下りて、川縁へ。水は冷たそうだった。「人生は河の流れのようだ。」って誰の文言だっけ…と物思いに沈みつつ、水に手を浸した。
凍てついた寒さの日だったから実際冷たかったかよく覚えていない。ただ風がビュービュー頬を切り裂いて行く音は耳に残ってる。実感が伴っていなかった。幽霊みたいな感覚だった。私にとっては、あの時が、此の世と彼の世の境目が一番曖昧になった瞬間だった。

俯いた途端に視界が滲んだ。
なんで涙が出たのかは、わからなかった。
ふと、疑問が浮かんだ。
なんでこんなに孤独に、独りで寂しく死ななきゃいけないんだろう。
何も悪いことしてないのに。
どうしてこんなに辛くて、悲しくて、苦しい想いをしているのに、寂しく死ななきゃならないんだろう。
あまりにもちっぽけでくっだらない存在だけど、居場所がないだけで私がいなくならなきゃいけないんだろう。

結局、つまり私には、
此岸に留まる理由もなかったけれど、
彼岸に逝くべき理由も持ち合わせていなかった
のである。

ぐるぐると、脳裏に思考が走馬燈のように駆け巡った。
毎日人が死ぬ。
自殺で。他殺で。事故で。老衰で。

常人には、わからない理由で人は呆気なく死ぬ。

だったら
この苦しみを誰かに伝えなきゃ
死ねない
死んでも死にきれない
唐突だった。
逝くべき理由がわからないのであれば、このしんどさを誰かと分かち合ってから
表現してから
だって、私が感じているならば同じようなタマシイを抱えて生きている人がいるだろう
この世界のどこかには存在しているだろう
せめてこのキモチを知って貰ってから
それからでも、遅くない

"それ"が私が踏み止まった理由だった。

"わからない理由で死ぬならば、せめてこの胸に渦巻くモノを表現して伝えたい"
死ななかった、未だに死なない私の理由。

もう一つ、私にとっては奇跡的な大事な出逢いがある。
「読書が趣味」の私は苦悩していたので、自殺に関する書籍を選んでいた。そんな中、私は『車輪の下』に出逢う。最終のページをめくり、結末を迎えた主人公は川に身を投げて、死ぬ。
このとき私は作品の中でいきているものが死んでも、殺しても良いのだ、と気づいた。実際に息を止めるのは、簡単だし非常に楽になれる。けれども、その行為を実行するのは一般的・常識的にはイケナイと考えられている。それでも、そうしたいと考えることはやめられないだろう。そういった感情の発露を、作品の中であれば、行っても大丈夫 であることを発見できたのはその後の自分にとって非常に良い影響を与えた。
少々補足すると、『車輪の下』で主人公は死ぬが、作者は死ななかった。作品を読んで主人公の状況にとても共感を持った私は、こんな方法をとる作者がいることを知った。ごく簡単に述べると、救われたのだった。

最期に
長文だったけれども
ここまで読んでくれて、ありがとう。

実のところ、私個人的には、私をひきとどめられる人も、言葉もなかったことを記しておこう。
たくさんの人が、あなたに死なないでほしい、と考えてくれている。それは、事実だ。と同時に、"死にたい"と心から願っている、あなたの気持ちは否定すべきではないし大切な大事な、なによりも尊重しなければならないキモチだと私は思う。自殺など、成功してしまうか、失敗するか、一か八か程度の些末な問題なのだと一経験者は感じる。(石を投げないで下さい。m(_ _)m)
だから、私は私の理由で死ななかっただけだと知っている。私とあなたは違うからきっとあなたのことをすべて理解することは私にはできないだろう。くだくだしく述べてはいるのを自覚しているが、今後もあなたには訓告めいたお説教やお節介を行う大人は多い。(ちなみに私はそんな奴らが大嫌いだ。)
経験者、同じ穴のむじなとして申し添えるならば、そんなに自分を責めないでほしい。苦しんでいるのだから、自分で自分のことぐらい許したってバチは当たらないと思う。

以上だ。

ここまで気長に読んでくれたなら、踏み止まることはできると私は認定するが…w
いかが?


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