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30年間、のべ数千万字の文章を書いてきた中で最も大切にしている文章執筆4つの心がけとは

幼い頃から活字を読むのが好きでした。

お行儀が悪いのでまったくお勧めはできませんし、いたしませんが、たとえ食事中であっても本や新聞、雑誌を読むことを止められなかったのです。

母の名誉のために言っておくと、子ども時代から数え切れないくらい注意はされてきたのですが、いくら言われても言うことをきかず、最後には母親も諦めることとなりました。ゲームに没頭するよりはまし、くらいに思われたのでしょうか。

 
小学生高学年の頃には既に、活字なくして食事できなくなってしまったくらいに読むことが中毒化し、今に至ります。現在も、会食以外の、一人での食事の際は活字必須。

そんな大量インプットによってか、脳内から滲み出てくる思索の成果(というのは大袈裟に過ぎますね、考えの断片、くらいにしておきましょう)を、あるときから無性に言葉で表現したくなり、およそ30年間ほど前から、日記を書くようになりました。

やがて、それだけでは飽き足らなくなり、自分の考えを他者に伝達したくなって、結局、この17年間(およそ6,000日の間)、文字数にして数千文字はゆうにあるメルマガを一日も休まず、書き続けてきました。

(約6000号に及ぶバックナンバーの全ては、こちらにアップしております。嘘偽りは一切ございません)


これまでに記してきた30年分の日記&メルマガを累計すると都合、数万に及ぶ「数千文字程度の文章」を編んできた計算になりますね。メルマガだけを考えても平均3000文字として、6000号ですから1800万文字。これに日記を加えたトータルの文字数は少なく見積もっても数千万字。今、こう書いて自分でも結構びっくりしているのですが。

拙いながらも文章を編む力を手にし、時間をかけて試行錯誤を重ねていくなかで、執筆を重ねてきた恩恵は現実世界に波及していくこととなりました。


文章を紡ぐことによって思考が精緻化され、求める成果を手に入れるための行動を誘発、あるいは制御できるようになります。さらには他者への働きかけを直接・間接に行えるようにもなるでしょう。

この果実を存分に手に入れ、いつしか、時間的自由、空間的自由、人間関係における自由、さらに、ほとんどの人が気にしていないような素振りをしながらも、実はとても気にしている経済的側面における自由、をも手にすることができました(と言っておきましょう)。


それらを手にすることによって精神的な自由をも、ある程度までは享受できるようになり、日々のたわいもないことにも喜びを見い出せるようになり、ときおり面倒なことに巻き込まれた際にも上手にやり過ごせる、そんな世の中の処し方も身につけて、人生における満足や充足も得られるようになりました。

とはいえ勿論、この世に完全、完璧というものはないのであって、ほどほどのレベルに過ぎません。ただ、少なくとも人生のある時期までは、以上に挙げた諸側面において不自由極まりない生活を強いられてきたので、今の環境は本当にありがたいことであると日々、感謝しているわけです。


それも、これも「書く力を身につけて、発信し続けてきた」からこそ手に入れられたもの。

そんな私が、別にこれが正解だというつもりは全くないのですが、それでも膨大な文章を書き続けてきた中で編み出した(現実世界を好転させるために記述する)文章執筆時における「心がけ」のようなものが確立されてきましたので、今日はそれを以下にご紹介いたします。


私が文章を記す上で大切にしている「心がけ」は、シンプルに、以下の4要素によって構成されます。

1、新しい体験をする
2、体験を経験化(教訓化、言語化)する
3、他者への橋渡しのための明快な論理展開を心がけつつ、比喩や造語を出来る限り活用する
4、各種の文章執筆技法を活用して、文をお化粧してお届けする

こと。

これだけだとなんのことか分かりませんよね。詳しく一つづつ見ていきたいと思います。


まず、新しい体験をする、これはいうまでもありません。

十年一日の毎日を繰り返していては刺激が乏しくなり、遂には一切の変化がなくなり、来る日も来る日も同じ毎日、の泳げたいやきくん状態となります。古い、というか古すぎるんですが。

こうした生活の中から、何かを表現したい、何かを伝えたい、という気持ちが起こるはずもありません。

日々、心の中で「!」「?」が生じる、感情変化を伴う体験を重ねることによってのみ、それがトリガーとなって思索が発動し、漠としたアイデアを形(明快な考え)に変えたいという欲求が生まれてくるのです。


たとえば以前、こんなことがありました。

ある方が著作の中で、戦国時代には「武者語り」という風習があったと記されていたのを読んだときのこと。(読書も一つの新しい体験です)

武者語りとは端的に言えば、歴戦の武士が目下のものに、過去の戦(いくさ)において樹てた武勲、武功から、戦場において留意しなければならない点まで、ざっくばらんに話をする、というものだそうです。

これにおいて私の頭の中で「!」が立ちました。


確かにこうした伝え方は、座学での「お勉強」とは異なる実践的な教育慣習であり、若武者たちにとって、実地、役に立つ教育方法だなと。

昔ほどではないかもしれないけれども、現代においても先輩からの「武者語り」が大いに参考になる点があるではないかと。

後述するような「教訓」を得られぬ、居酒屋での単なる武勇伝自慢は困るし、迷惑だけれども、戦場(ビジネスの現場)で役に立つ武者語りは大歓迎。そんな武者語りをしてくれる、全幅の信頼を置ける上司や先輩が見つかれば、その人がロールモデルとなることもありますね。語ってくれる話は素直に聞けるし、それがそのまま聞き手の成長につながります。


また、それとは別の機会ですが、駿台英語講師であった故・伊藤和夫先生の書物を読んでいたときに、以下の言葉に触れました。


『ビジュアル英文解釈』における転換とは、突き詰めて言えば、次の点にあった。
 1. 「体系」を隠すこと
 2. 「構造」よりも「流れ」を重視すること
 3. 「現場性」の取り込み

この文章は英語教育において、体系化、構造化、抽象化も大事だけれども、それを承知した上で、それらをあえて後景に追いやって、前面には打ち出さない。

もし前面に押し出して教育に携わっている人があるとするならば若さゆえの過ち、そんな文脈で語られていた話(かなり私の超訳が入っていることをご了承下さい)です。


こうした考えに接したとき、これは英語教育のみならず、教育全般にいえることであって、過度の体系化、構造化、抽象化を推し進めることは、むしろ実生活との遊離をもたらし、学びの魅力を減じさせ、本来、期待される教育効果が提供できなくなる可能性があるのではないか、という思いが生まれたのです。

これまた私の頭の中における「!」であり、ここにおいて前者の「!」と後者の「!」が結びつき、化学反応が起こりました。


武者語りの武者語りたる所以、すなわち武者語りのもたらす価値は「コンテンツの体系を隠し、流れを重視し、現場性を取り込む」ところにあり、こうしたことを理解しながら話の展開を、相手の反応を見ながら適切にコントロールできる真の武者は、後進に大きな価値を提供できる貴重な存在なのではないか、というアイデアが浮かんだのです。

であるならば、もし私が他者に何かを伝える際には「コンテンツの体系を隠し、流れを重視し、現場性を取り込む」ことを心がけつつ格好をつけず、ざっくばらんに、お互いを感じることができるくらいの近い距離感で「武者語り的放談」を貫くことによって、提供する教育価値を最大化できるのではないか、と考えたのです。


ここから2番目の

体験を経験化(教訓化)する

ということにつながります。

こうしたアイデアはふと閃いた(=「!」)ことを、正確に記述することによってのみ「教訓」へと昇華されます。ここでいう教訓とは「成果につながる行動を生み出す、意思決定の基準」とでもいった意味合いで捉えて下さい。


こうした教訓を確立できれば、それは必ず今後の行動や振る舞いへと波及していくこととなります。逆にいえば、行動に波及する教訓でなければ、それを教訓と呼ぶことはできません。

気づきや閃きが今後に反映させられる意思決定の基準に反映されてこそ、体験が経験化されることとなるのです。


また、自分に対してのみならず、他者に価値をもたらす何かを提供しようとする際にも「体験が言語によって教訓化、経験化されている」ことは必須でしょう。

以上のプロセスを経ることなく、体験を体験のままに放置しておくと(すなわち言語化して凝固させておかなければ)そのまま流れ去り、どこそこに行った、あの人に会った、こんな本を読んだ、という記録しか心の中に残りませんし、聞き手を真剣にさせる、締まる話ができようはずもありません


居酒屋武勇伝の退屈なのは、自慢のみに終始し、納得も得心もいき、活用してみたいと思える教訓が得られないから。それは単に時間と(場合によってはカネも)の無駄になるだけです。

自分の体験について誰かから問われたとき、相手が期待する以上の何ものも語れなかったとするならば、それは、せっかくの体験が経験化されてなかった、ということになるでしょう。

厳しめの言葉でいうならば、体験と、そのために投じた時間を無為に費消したに過ぎぬ、ということです。

そうなっては残念ですから、貴重な新しい体験を、自らの過去に培ってきた知識や経験と照らし合わせつつ、都度、教訓へと昇華させ、(体験から)経験へと転換し、言語化すると良いですね。


言葉による凝固化を図ることよって、アイデアは不滅の生命を持つことになります。こうした教訓を「これから先、死ぬまでの、自分に対してのプレゼント」として日々、たくさんの新たな体験の経験化によって、量産化することを意識してみると良いでしょう。

こうした「未来の自分へのプレゼント」は、単に「未来の自分へのプレゼント」に留まらず、もしそこに普遍性があるならば(ほとんどの場合は、普遍性があるからこそ、将来の自分に贈りたいと思うわけですが)、他者に伝達したときにも、同じく大きな価値が生まれるに違いありません。

こうして内的な気づきや発見を他の人に伝えたい、という思いが湧き上がってくることとなるのですが、その際、スムーズに伝えたいことが伝わるようにするには、まず何をさておいても論理構成を整えること、が重要になります。


ここにおいて3番目の、

結論の他者への橋渡しの基礎づくり(スムーズに伝達がなされるよう、論理構成を整え、可能な限り、比喩(含む造語)を活用する)

が登場することとなります。


先の話にも関連することですが、口頭で話をしていることも、いざ、文字に表してみると論旨一貫していないことが判明する、ということはよくあるものです。書いてみてから、論旨一貫していないことに気づくのも問題ですが、それ以前に書こうとしてみるとなんとなく話をしていたこともまるで書けなくなる、ということも往々にしてありますね。これなどは書く以前のお話なのですが。

でも、こうしたことも書くという行為によって初めて了知されるものであり、書かなければ永遠に自覚すらできなかったこと


文章を書き始めたときにはそんな状態から始まり、やがて悪戦苦闘しながらも論旨一貫した文章を書けるようになれば、少なくとも私の頭の中と、相手の心の中を架橋するための、最低限の基盤は整った、といってよいでしょう。

その上で、論理のみで思いや考えを伝達するのは、どうしても抽象度が高くなりがちであり、というよりも論理とは抽象の世界そのものですから、ぱっと見、親近感が湧きにくい文章となるので、そこに身体感覚を伴わせる(より正確には五感で感じ、直感で納得しやすくなる)、比喩表現に置き換えることによって、理解を促進させられるようになるのです。


たとえば武者語り、という言葉はメタファーですね。現代において「武者」は存在しませんが、今に生きるビジネスパーソンを武者(と若武者)に例えることによって、情景が鮮明にイメージされ、すっと入っていくこととなるでしょう。

論理を比喩によって表現することで、理解が促進されるということがあるので積極的に使っていきたいもの。


先日、投稿した

のタイトルならびに文章は、典型的な比喩表現です。


営業においては顧客の認知の最上位を占めるように心がけましょう、だと論理的には確かにその通りですが、今ひとつ、理解がされにくい。

それを「比例代表制選挙の名簿一位を目指しましょう」、あるいは、北斗の拳のケンシロウのごとく「お前はもう、死んでいる」ならぬ「あなたはもう、買っている」という形で、未だ買っていないけれども、既に購買の意思決定をしている、というところまで持っていくのがセールス、それを造語、仮に「北斗の拳セールス」と名付けましょう、というと少しは分かりやすくなりはしないでしょうか。


別のところでは「203高地セールス」と表現したこともあります。日露戦争に詳しい人であれば理解頂けるかと思いますが、落とすのが難しい203高地、しかしここから敵を追い落とせば戦局を一変させる、そんな戦略的要衝です。お客さまの脳内の戦略的要衝を落とすことによって購買に至らしめる、といったイメージを持ち、理解を深めてことを目的として用いた比喩、それが「203高地セールス」です。


あるいは「だるまさんが転んだセールス」という言葉を作ったこともあります。だるまさんが転んだ、の遊びにおいて全力で突っ込んでくる子はありません。あったら鬼まで辿り着く前に憤死です。近づいているのか近づいていないのか分からない、細かすぎて伝わらないくらいの速度で接近していくから、最後、子は鬼にタッチできるのです。営業もかくあるべし、というのが「だるまさんが転んだセールス」。

これも比喩ですね。

論理と比喩をセットで伝えることによって、より正確に相手の理解を助けられるようになるでしょう。


最後、4番目、これは細かく書くとキリがありませんので、ほどほどにしておきますが、他者に文章で何かを伝える際には、

各種伝達技法の活用&推敲によって文をお化粧して届ける

ことも意識したいもの。


たとえば同じ言葉を何度も繰り返さないとか、同じ文末表現を繰り返さないとか、キラリと光る(記憶に留まる)文章を意識的に挿入するとか、主語・述語の関係性を意識するとか。

あるいは、適切な接続詞の利用を心がけるとか(たとえば「ところが」といった論旨の方向転換の文章を短い文章で二度三度繰り返さないとか)、できることならば文頭と文末を照応させたりであるとか、これは文章術系の本を読めば、書いてあることです。


こうしたことを心がけつつ、最後に推敲をして文章を整え(お化粧して)お届けする、

ということですね。

これができれば相手に伝わり、動いてもらえる文章をかける(はず)。


ここまでの話の一つか二つでいいので、今後の文章執筆の際に反映して頂けるとするならば、伝わり、動いてもらえる文章を書けた、ということで私の勝ち。

一つも使えるところはなかったし、活用したいとも思えなかった、ということであれば素直に負けを認めるしかありません。

ただし、こうした真剣勝負を繰り返さなければ、けして文章は上達しないわけですから、そこはそれ、負けて覚える相撲かな、からの、捲土重来を期しての、これからの精進にご期待頂くよりほか、ありません。

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