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夢は、人生そのものだと思ってた。

私には、夢があった。

そして多分、私を知る人の多くは、その夢が何であるかを知っていると思う。

私にとって、夢は人生そのものだと、そう思っていた。

でも、掴みかけたその夢を、私は自ら手放した。






2001年9月11日。

私が9歳の時。

飛行機が高層ビルに突入していくあまりにも恐ろしい映像をTVで観て、衝撃を受けた。

怖くて堪らなくて、それでもその後の報道を見聞きして、次に湧いてきた感情は「なんで」だった。

なんで自分の命を犠牲にしてまで、こんな恐ろしいことをしてしまう人がいるんだろう。不思議でならなかった。

それ以降、私は国際社会での出来事に強く関心を抱くようになった。

その後のアフガニスタン紛争、イラク戦争に関連するニュースを目にして、「なんで何の罪もない人が殺されなきゃいけないんだろう」と、また「なんで」の気持ちが募っていった。

そして、2003年11月29日。

日本人の外交官である奥克彦さんと井ノ上正盛さんが、イラクで殺害された。

当時11歳だった私は、悲しい気持ちになると同時に、"外交官"という職業を初めて知り、興味を持った。世界平和に貢献できる仕事だと知って、小学校の卒業文集に「外交官になりたい」と記した。

その後、貧困のため学校に行けず働いている途上国の子どもたちのドキュメンタリーを観たり、外交官以外にも世界平和に貢献できる仕事があると知った14歳の私は、国際協力に携わる職業に就きたいと決意した。



大学では、1年次から政府開発援助(ODA)を専門とするゼミに入ってグルワに夢中になり、国際協力に関わる仕事がしたいという想いはより一層強くなった。

でも、国際協力業界は私の想像よりも遥かに狭き門だった。

2年次になり、進路について本格的に検討し始めた頃、新卒の文系学部卒の女が、卒業後すぐに国際協力に関わる仕事に就くことは難儀だと気付いた。

大学院に進むか、ひとまず就職して数年で国際協力業界で活躍できそうな専門性を体得するか。研究が好きだった私は、とても悩んだけれど、後者を選んだ。

100社近くにESを提出し、インターンや面接を受けまくり、内定をもらった大手外資系企業への就職を、グローバル且つスピーディーに専門性が身に付けられそうだという理由で決めた。

そして…苦労して就職したその会社を、私はわずか約1ヶ月で辞めた。

大手企業に新卒で入社出来たのに勿体ない、という周りの声をよそにして。



翌年からは大学院に進学し、アフリカ地域研究を専門とする教授のもとで2年間研究に没頭した。

入学後、私は教授に「途上国で社会的に弱い立場にいる人々への支援が最も大切だと思っている。近年のODAを巡る議論は短期的な国益を重視する傾向に偏っていて、疑問に感じる。困っている人たちに寄り添うような援助こそ援助のあるべき姿であると思うし、長期的な国益に繋がると思う。そういう想いをこめて、論文を書きたいんです」と少々熱っぽく主張し、運良く2ヶ月滞在できたケニアでの研究調査をもとに、修士論文を執筆した。

あるとき、指導教授に聞かれた。

「将来どういうキャリアを考えていますか?国際機関?政府関係機関?NGO?この研究科は、国際機関を目指す人も多いけど」

私は、こんな風に答えた。

「私の能力では国際機関は到底無理だと思うし、上に行きたい、高みを目指そうという野心は、私にはありません。国際協力に携われたらいいなと思うけど、携われなくてもいいと思っています。国際協力業界で活躍している多くの人たちみたいに、私は向上心がないし、精神的に弱いけど、でも弱い人間だからこそ困っている人たちとちゃんと向き合って、小さくても何か自分にできることがしたいです」と。

教授は 「なんだかうちのゼミ生らしい発言ですね」と少し困ったように言い、優しく微笑んでくれた。

そんなこんなで、国際協力に携われなくても、困っている人のために何か出来る仕事がしたいなと思っていたのだけれど。



大学院の修了後、縁あってとある開発コンサルティング会社で働くことになった。

国際協力というと、国際機関やNGO、青年海外協力隊のイメージが強く、開発コンサルは認知度が低いけれど、主にJICAがマネジメントするODAのプロジェクトを実際に動かしている会社だ。もっと平たくいうと、途上国を支援するプロジェクトをまわしている会社。

国際協力の仕事をするという私の夢が、ここから始まった。

アフリカ諸国からの研修員受入事業のマネジメント補佐を担当したり、とある国への日本のODAを評価分析したり、自社HPのリニューアルやパンフレット作成といった広報的な仕事もしたり。

ずっと関心を寄せてきた分野で、仕事自体はとても楽しかった。毎日忙しくて大変なこともあったけど、やりがいを感じていた。

でも。

心の中で、何かがずっと引っかかっていた。



大きな枠組みでいうと、二つある。

一つ目は、「社会的に弱い立場にいる人々への支援が最も大切」という自身の価値観と逆行するような行動をしなければならない局面が多々訪れたこと。

二つ目は、誰のために働いているのかが分からなくなったこと。

私は政策に関わるような案件も担当していたから、とりわけこれを感じることが強かったのかもしれない。

仕事をある程度要領よく効率的に進められるようになり、自分の裁量で出来ることが増えてきた頃、私は上司に「クライアントはきっとこういうスタンスだから、こういう感じでいく方がいいと思います」と進言することが増えた。

クライアントの意向を汲んで、それに沿った対応をすれば、事が円滑に進む。ほぼ無意識的にそれを計算して、私は仕事を作業のように"こなす"ようになっていった。

でも、ある時ふと思った。

「私、誰のために働いてるんだっけ?」って。

困っている人たちのために頑張りたかったのに、いつの間にか逆の方向に走っている気がした。

小さなことでいうと。

上述したような違和感がストレスになり、また多忙も相まって、私は日々の生活の中で、自分の良心に反する行動をするようになっていった。

帰りに立ち寄ったコンビニで、店員さんに無表情で感じ悪い対応をしてしまったり。ペットボトル専用のゴミ箱にスタバのコーヒーのゴミを捨てちゃったり。相談してくれた人の話を、適当な相槌で聞いてしまったり。悲しい報道を目にした時に、目を背けちゃったり。(みんなみんなごめんなさい)

そういうのに似たことが続いて、心が荒んでいった。

小さなことって書いたけど、私にはとても大切なことだったんだと思う。

私が大切にしたいものって、目指してきた姿ってこんなのじゃないって、罪悪感や情けなさが募っていった。

何か大きなことを成し遂げるよりも、そういう日々の暮らしの中で、小さな一つひとつをきちんと丁寧にしていくことの方が、私にとってはずっと大切なことだと思った。


そういう想いを抱える中、引き金になることがいくつかあって、私はずっと夢だった国際協力の仕事を辞めるという決断をした。





夢は、私の人生そのものだと思っていたから、これまでずっとそれを第一に考えて生きてきた。

夢のために頑張っていて凄いねなんて言われたこともあったけど、本当のことを言うと、夢以外に私には何もないって本気で思っていたから。




詳しく書くとしんどいからぼかすけど、私には10代の頃、辛くて苦しくて誰にも頼れなくて、一人でどうしようもなくどん底にいた時期があった。

死にたいと思ってもおかしくないくらいしんどかったのに、それでも生きようと強く思えたのは、夢があったからだ。

あの頃の私は、夢を叶えるために生きること以外に、生きる理由が上手く見つけられなかった。

途上国で自分なんかよりずっと不条理な状況、社会的に弱い立場に置かれていて困っている人たちの支えになれれば、私の生きている意味も少しはあるだろうって思った。

優しい家族がいて、帰れるお家があって、食べるものも着るものも全く不自由していなかったのに、あの頃の私は生きづらさを感じていて、そういう考え方しか出来なかった。

だから私は、夢に生かされてきたんだなって思う。





今の私は、国際協力の仕事という夢は手放したけど、夢の原点に立ち返ることができた気がしている。

不条理な状況、社会的に弱い立場に置かれていて困っている人たちに寄り添うような支援がしたいということ。

それは、悲しい事件の根源(だと私は思っている)である生きづらい世の中を良い方向に動かす一つの道なのかなとも考えている。

次の職場には、大切にしたいその価値観を実現出来そうだなと思った会社を選んだ。




再来月からは、就労移行支援事業所(就労を希望している障害のある方々をサポートしている所)で、就労支援員として働きます。

自分で決めた、新たな道。不安が全くないといったら嘘になるけど、わくわくの気持ちの方がずっと強くて、これからが楽しみ。





最後に、私の文章力の低さゆえに誤解されるといけないから補足しておくと、開発コンサルとして働いている方々の多くが、途上国で暮らす人たちのために頭と身体をフルに使って日々努力されています。

私は彼らをとても尊敬しているし、それはこれからもずっと変わらないと思う。

それに、仕事としての国際協力からは離れるけど、関心は持ち続けていたいし、いつかまた何らかの形で関わっていけたらいいなとも思っている。

なかなか安定せず、自分を甘やかしている私ですが、お世話になっている方々に少しでも胸を張って私らしく歩いているよって言えるように、生きていければと思っています。

今後とも、何卒よろしくお願いします☺︎















もう一つ、最後に。

これを読んでいる、未来の私へ。

ランドセルに入っている、11歳の時の私が書いた(「本当のイラクの平和とは」なんていう仰々しい題目がつけられている)作文には、こんな言葉が記されているよ。

「本当にイラクが求めているものを日本が自分たちの立場になって考えることが、日本がイラクにしてあげることの一つではないか。」

言うは易し行うは難し、な「相手の立場に立って考えること」にきちんと努め続ける大人でいられますように。

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