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コツコツと

設計から商品企画へ異動したワシ。
設計の仕事から、どんな製品を作ったら良いのか?を検討する部署へ。
と言っても、いきなり製品企画できる訳でもなく、小規模メーカーもあり、
営業の技術サポートも行っていた。
営業が半導体を売り込む時に、相手が技術者の場合に営業のサポートを行う
このサポートを通じて、どんな製品に需要があるのか?をリサーチする、
というのも仕事だった。
そして、商品カタログの製作も担当する事になった。
これ、意外に役に立った。製本までの知識と英語の勉強に!!
海外向けカタログでは、英語(特に技術単語)を知る必要があった。
この時の上司は、ワシが異動になった経緯も知っているので、
後日知ったのだが、仕事量も調整していてくれた。
そして、小さな成功からコツコツ積上げられるように配慮してくれていた。

異動して半年くらい経った時、ある系統の商品を拡販する事になった。
営業、商品企画など会社全体でのプロジェクト。

アナログ方式の携帯電話

携帯電話用に使用する半導体の拡販業務だった。
時代にマッチしたのもあると思うが、これが上手く行った。
携帯電話用途ICの売上が、倍々に増えていったのである。
営業や工場の頑張りがもあるが、商品企画部も貢献出来たと思っていた。
この仕事で、日本国内いろんな所に出張で行った。
北は仙台・山形、西は九州・山陰地方まで
この当時は、国内メーカは国内工場で量産していたからであった。
でも、殆ど日帰りだったけど・悲
新幹線や飛行機使用で、山陰地方以外はほぼ日帰り出来てしまう。
ある時は、午前中仙台で打ち合わせ、午後は下田(静岡)で打ち合わせという
東北新幹線から東海道新幹線乗り継ぎなどもやっていた。
そのためポケット時刻表をいつも持ち歩いていた。

全国の時刻表を網羅していて便利だった
当時使用したものでなく、イメージです

海外出張も行かせてくれた。
日本に戻ってきて、成田空港で上司に電話したら
『悪いけど、そのまま大阪へ行ってくれないかなぁ~』
と言われた時だけは、
『ええぇ~』
とは思った事があったが、とても一生懸命・楽しく仕事をさせて貰えた。
この時の上司には、感謝しきれないくらいだ。

銀座のクラブのイメージ・こんなに輝いては居なかった
実際に行っていた場所ではありません

仕事が順調時に課員を銀座のクラブに連れて行ってくれた事があった。
まだバブル余韻があった時代ならではの事。
ワシは当然のごとく初めての場所。
物凄くシックで、ピアノの生演奏があって、キレイなお姉さん達が沢山。
周囲を見回しても、ワシが一番若いようだった。
『あら、お若いお客様、うふっ』
とか言われて、舞い上がったワシ・汗
正直、お酒の味など覚えていない・・・雰囲気にのまれていたと思う。
お姉さん方は、経済新聞を読み込んでいるようで、業界の話をしても、
きちんと理解していて、会話が成立するのに驚いた。
接客のプロってスゴイな!!と感じたものである。
支払いは、会社のカードだったのは言うまでもない。

商品企画の部署で約3年過ぎたころに、思う事があり転職を考え始めた。
今の仕事に満足感を得られなくなって来たのだった。
企画を上げても、在籍していた会社では実現が難しいのが理由だった。
その当時は、イチ社員としての目線でしか考えられなかったが、
会社には、生産順位・設備都合・設備投資などの問題があり、
ワシにはそこまでの広い視野が無かった。というか出来て居なかった。
そのジレンマがあり、入社して4年11カ月で退職する事になった。
5年で退職した方が、退職金を多く貰えるのだが、1995年2月末で、
本社が移転する事になり、そのタイミングで退職する事にした。

オフィスのイメージです。

有給休暇を利用して、3月末まで在籍するのも権利としてはアリ?
だったかも知れないが、退職が決まっているのに移転先に席を・・
というのは、いかがなものか?と思ってのものだった。
バブルがはじけて、一坪4万円だった場所から1.8万円の場所へ移転、
という事情もあり、そのタイミングでの退職を了承された。
移転先は、移転前より狭くなるのが判っていたからである。
4年11カ月という期間、正社員としての初めての会社勤めが終わった。
次の会社を決めずに・・・・

コアラです。抱っこは出来ませんでしたが、お尻は触った。

3月になり、海外旅行へ行った。
当時付き合っていた現妻と、南半球へ。
『海外旅行に行きたい・行きたい』
と何度も言われていて、退職して時間が出来るからその時でいい?
という事になり、遊びで初海外・7泊8日へ
渡航先の航空会社往復利用で、14万円/人しなかったと思う。

実際に利用した航空会社

オプションツアー2~3つ混みで。さらに写ルンですが1人1個付き・笑
出国書類の職業欄には
”無職”
と書いて堂々と出国した・笑
安価という事もあり、ホテルは日本語通じない。
全部英語だったが、なんとか通じていた。妻はダンマリ。
オプショナルツアーが無い時に、地元路線バスで観光客が来ないビーチへ、
行ったりもした。非情に楽しかったのだけは覚えている。

何処の国から来たの?
と良く聞かれたのだが、日本と答えるととても親切だったのを覚えている。
中国と答えると、対応が違ったらしい(後日談)

帰国後すぐには再就職せずに、結果的には1年間空いた。
半導体の仕事をしていた時はやらなかった麻雀。
この1年間に、再び牌を握る事になった。
それは、ひょんな理由からだったが、その話は次回へ

ぷくぷく


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