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番外編④ あの時、何が出来たのか?

3月11日
あれから、もう13年が経った
仕事の関係で札幌在住ではあったが、大阪に滞在して仕事をしていた。
前日にお酒が入っていたせいか、少し身体が揺れていた感覚があった。
だが、実際は二日酔いではなく、本当に揺れていたのであった。
東京の本部と連絡が取れなくなり、札幌事務所にも連絡が取れず・・・
そうしているうちに、ビルの管理室から
『津波の可能性がありますので・・・・』
というアナウンスがあり、ビルの津波対策の隔壁が動き出した。

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比較的新しいビルといふ事もあってか、津波対策を施してあるビルだった。
少しづつ、地震の状況が判ってきた。
①東北が震源地
②東京や北海道もかなり揺れて、業務停止になった
③津波が複数個所で発生
④北海道顧客や東京本部と電話など連絡が取れない
という事

報道でよく見た写真

妻や義兄は、その影響を受け自宅に帰れず、
都内・埼玉の避難所で帰宅困難者として宿泊を余儀なくされた。
ワシは特に生活に困ることなく、大阪から北海道に飛行機で一旦帰宅。
都内在住の両親や妹家族も怪我なく無事を確認出来たのだが、
両親宅に米が無い!!という話を聞いた。
買い物に行こうとしたら、ぐらっときたらしい。

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ワシは急遽、近所のスーパーへ米を買いに行った。
10kg袋を2袋と電池、レトルト食品等を購入。
この時点では、この店舗には潤沢に米など食料品が販売されていた。
千歳→羽田便が再開したので、購入した食料等をキャリーバッグに詰めて、
実家経由で大阪に行くことにした。
米20kg+αなのでキャリーバッグは相当重かったが、飛行機に預ける荷物、
ワシは40kgまで可なので頑張って運んだ。
両親が落ち着いたところで、大阪へ移動。
その間に、北海道の顧客状況も判ってきた。
津波で車がダメになった方や、職場地下室が浸水された顧客は居たが、
命に係わるやうな事は無かったので、安心したのを覚えている。

結局のところ、ワシは何も出来なかった。
せいぜい、両親に食料等を持っていけただけ。
仕事もあったので、ボランティアにも行けず・・・
そんな想いもあって、会社全体で義援金出すことになった際に、
給与天引きでお金を出す事くらいしか出来なかった。
何もしないよりは良いと思って、10万円ほど寄付をした。
金額的にどうか?を考えると、普通のサラリーマンとしては多いと思う。
でも、自分自身が何も出来なかった事に対してやりきれない思いがあり、
多少多くという事で、自分自身を納得させる事しか出来なかったのである。
当時は、そこそこの年収があったせいもあるが、本当にそれくらいしか、
出来なかった。

そんな事を想い出した2024年3月11日の朝であった。

ぷくぷく


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