「酔いどれクライマー 永田東一郎物語」藤原章生著

読了後、心をかきむしられ、しばらく動けなくなった。

生まれが自分と同年(1959年)であり、同じく登攀にのめり込んだことがあるので、主人公の挙動と生き様が他人事ではないのだ。等身大の自分史を反芻しているかのように、当時の心象が蘇る。葬り去ることのできない、あのときの自分。あの時代。後ろめたくて、思い出したくもない、どうしようもない、それでも少し懐かしい。そんな自分がこの本の中にいる。

2004年に46歳で世を去った永田東一郎は、1970年代末から80年代初頭を登山(登攀)にあけくれ、1984年、K7登頂を最後に山から足を洗った。
高校(上野高校)の3学年下の後輩である著者は後に記者となって、永田を描くことになる。本人と直接関わった記憶、友人、親族からの聞き取りなどから、永田東一郎という人物が明らかになっていく。もちろん、一人の先輩として、畏敬の念を持ちながら、丁寧に追っていくのだが、輝かしい記録を打ち立てた人の伝記ではない。東大に一浪して入学し、文字通り「東一郎」となった一人の「酔いどれクライマー」。思い出す人たちの口からは、彼を悪く言う言葉は出てこない。情けない、困った人、と言いながら、心底、憎めないのだろう。稀有な個性をもつ永田を、みんながみんな、ほほえみながら、柔らかく語る、その群像の語り口そのものが、この時代を表象しているようにも感じる。

個人的な話で恐縮だが、山にのめり込み、ある時を境に離れた経験が自分にもある。永田のような輝かしい経歴などあるはずもなく、練習中の事故がきっかけだった。永田の狂おしい活動時期に、こちらは、大学で音楽仲間とつるんでいるだけだった。方向は定まっておらず、病気になったり、留年したり、右往左往。社会人の山岳会に入会したのは、永田が山から離脱した時期と同じ頃だった。彼の行った山行の多くは当時の岩登りや冬壁志向のクライマーが目指す山々であり、永田が影響を受けた山岳書の多くは自分の愛読書でもある。だからこそ、というわけでもないが、どうしようもなく自己中心的で、破滅的で、上下関係に無頓着で、女性には不器用で、とにかく一番でありたいという、エゴを隠さない正直な生き様を、奇行のひととは思わない。面倒くさいけど気になる、一目置かれる人であったに違いない。我々の周囲にだって、そういう人は少なからずいる。それに、この時代では珍しいことではなかった。

永田東一郎は、K7の輝かしい登頂記録のあと、建築士になったあたりから、少しづつ転落していったのだろう。それでも、矜持は最後まで持ち合わせていた。子どもたちには優しい父親であり続けた。ただし、酔いどれだった。山屋の酒好きは珍しくもないが、最後まで酒から離脱することができなかった。というか、断つことなど考えもしなかったと思う。K7登頂の絶頂から一転、壮大な目的を見つけられなかったのか、虚無の神に魅入られたのか、自ら堕天使となってしまった。終始、恣意的な生き方をしているようにみえるからだ。

彼の死を12年後に初めて知ることになる著者は、その時のことを手帳にメモをする。〈永田 さん。 ショック と いう より、 ああ、 やっぱり。 でも、 い ない と 思うと寂しい> そして、取り憑かれたように彼の物語を書こうと決めた。性格と酒の飲み方が破滅型だった先輩のことを。

永田東一郎は、数多くの山行で滑落事故も多かったが、最後まで五体満足で通した。山では遭難しなかったが、社会では遭難したのではないか、という見方もあるようだが、本人は常に冷静だったのではないだろうか。客観的に道を外れていることを認識しており、いつでもエスケープできると思っていたはずだ。彼の場合、単に山から生還するのではなく、難ルートを攻略することに最後まで拘っていたようにもみえる。緩慢な自殺とみる周囲もいたようだが、そうではないだろう。情けないところもあるが、どんな過酷な状況にあっても、弱みを見せずに頑張り抜く粘り強さは、山屋の時と少しも変わっていなかったのではないだろうか。

痛いほどに揺さぶられ、胸が熱くなる本でした。

#酔いどれクライマー  永田東一郎物語
#藤原章生


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