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【子育て・日々悶々】情報格差=教育格差の深刻さ

こんにちは
今日は友人がシェアしてくれたブログをシェアする。今置かれている自分がいかに恵まれているか改めて気付かされたブログだ。

東京生まれ、東京育ちの私だが、幼少期5歳まで、山梨県で育った。都会生まれ、都会育ちの両親にとって甲府といえど、家の裏が「田んぼ」という場所での生活。それも20代半ばという若さだったため、私が大人になってからよむ、「週末車飛ばして実家に帰っては、子どもを親に預けてディスコに言っていた」という不良な親(笑)っぷりな発言を聞かされていた。

自分が30代で親になり、親や夫に子どもを預けてお稽古ごとに行ったり、飲みに行ったりしていると、20代で子育てしていた両親のディスコに行きたくなった気持ちが痛いほどわかった。そしてそれができた両親は、本当に恵まれていたんだなということにも気がついた。

友人が共有してくれたブログを読んで、もし自分の親が、自分が、このブログの筆者と同じ境遇だったら、、、と思うとなんとも心苦しいし、これを読んで、こうしてある意味苦しんでいる人を目の前にした時、一体何ができるんだろう思ってしまった。
一つ気がついたことは、こういうシチュエーションにおいて、教師と、本屋と、図書室がとても大切で、大きな影響力を持っているかもしれない、ということだ。
(そして、ジャーナリストとしてどんなにネット記事を書いても、やっぱり「本」が一番幅広い人にリーチできる可能性があるのかもしれない)

田舎では色んな情報の存在を知る事もできない。そのような情報格差がある状態でインターネットを使ったところで、格差が開く一方なのは容易に想像がつく。インターネットがあれば壁を超えられるというのは、何もわかっていない持っている立場の人間の発言に過ぎない。孫正義が優秀な子供に奨学金を与えたりしているけど、田舎の子供は目立つ手段も知らなければ、そういう行動も取ることができない。結局ああいうので評価されるのは都会で恵まれた親から生まれた子供だけである。田舎の頭がいいだけで何も知らない子供はただだた埋もれていくだけだ。

この言葉が染み入った。

そもそも、立っている場所が違えば見えるものが違う。同じ時代を生きていても、同じツールがそこに存在していても、使い方を知らなければ使えないし、そもそも見えなければ使えない。

海外で生活していた私からすれば、米国の大統領選挙の行く末が、どれだけ米国人の日常生活に影響を落とすか考えられるし、それが翻って日本に住む自分たちにも影響があるか想像できる。

でも、明日のご飯が食べられるか分からない人にとって、遠い国の政治を身近に感じるのは至難の技で、ましてやそのような人が、自分も子どもと国際政治について話し合うなんてことをしようとはなかなか思えないだろう。

そういえば、社会人になって、東京から大阪に出張する朝、母に会社の先輩を乗せて、新幹線の駅まで送ってもらったことがあった。何気ない会話の中で、母はその朝読んだ日経新聞の記事の話しをし、私が興味あるに違いないからと、読むように言った。

この会話のことを、後日「私は母親から新聞の記事を読めと言われたこともなければ、新聞記事を話題をネタに会話した記憶がない」と関心した様子で言われた。我が家では至って当たり前だったことが、人の家では当たり前ではないのだと改めて気づいた瞬間だった。

外国人の夫は、どんなに良いと言われる学校にいかせても結局は家庭と言い張る。それは同様に、どんなに悪い評判の学校に子どもが通っても、家庭学習がしっかりできれば、進学もできるし、ちゃんと成績も取れるという。
家庭での学習に対する考え方、勉強そのものというより、学習に対する姿勢が全てだという。

教育格差の問題は、情報格差という以上に、情報処理格差なのかもしれない。目の前にある情報をどう捉え、どう役立てるか。そのことは、結局子育てにおいては、子どもの周りにいる親や、教師や、他の誰か子どもの面倒を見る人の影響が大きい。

何かいい方法はないものか、、、勝手に悶々とし始めた金曜日の午後。

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