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不士川温泉

 こんな夢をみた。
 私はまだ大学に居て、サークル活動に顔を出しているような歳だった。その頃の日課としてサークル棟に行くと、先輩たちが喧しい。聞けば、彼らの内で恋仲にあった二人が揃って行方しれずだという。駆け落ちだ、と後輩は決めつける。
 騒ぐうちの一人が持ち出してきたのは、目と鼻の先にあるターミナルから出る長距離バスのことである。それは、熱海に行くものだというが、大学から熱海に直行しているバスというのはどうにも妙である。
 ひとまずそのターミナルに行ってみようということになり、私を含んでサークルの五、六人で見に行った。ターミナルは、学生会館の脇、大学の敷地と大通りの境目である。
 バスのターミナルという話が、そこから伸びているのは鉄路だった。さらに窓口の係員は、これは川を下って海に出、海岸線に沿って西へと向かう航路だともいう。
 いっこうに要領を得ないので、車を出せる者が申し出て三台に分乗し、二人を追うという話がまとまった。同学年の友人の車に私は乗り込んだ。熱海に行くのかと問うが、ハンドルを握る友人は日本海の方だと答えた。
 昼だというのに真っ暗な山道を縫い、辿りついたのは能登の和倉のような温泉街だった。海沿いの街は暗い。が、その中央部には大きな鳥居が立って、出雲を思わせる巨大な社殿が建っている。それは二人の行方を訊ねようと入った大きなホテルのロビーからもしっかりと見えた。
 「こんなところまで来てしまった」と、サークルの面々は目的を達成しないうちから満足げである。駆け落ちした女の方に、実のところサークルの男たちは多かれ少なかれ好意を抱いていたのだと思った。
 一同は、暖かいロビーから動き出そうとしない。いつの間にか場所は座敷に移っており、酒好きな我がサークルらしく、学生街でも見知ったビールだの、土地の日本酒だのを盛んに飲み出していた。勧められて、私も烏賊や鰤を肴に地酒を口にした。酒は清く澄んでいて、澄み切っているからなのか、どこか寂しくなる酒だと思った。
 そうするうち、Yという院生の先輩が街を見に行かないかと言ってきた。Yさんの専攻は宗教学で、アジア諸方の信仰についての比較研究が主題である。巨大な宮が気になる私は応じ、二人で宴席を抜けてホテルを後にした。
 街も海も夜中の静けさを保っていた。しかし車はひっきりなしに往来して、林立したホテルや旅館を出入りしている。ホテルの前を流れる川を渡って大鳥居まで行くと、やはり先輩はそこから巨大な社殿を指して歩いて行く。街の中でここだけは、こんもりとした木々に囲まれて、いっそう暗かった。真っ暗だから細かくは分からないが、参道は砂利ではなく、細やかに均された粘土のようだった。
 「ここは何県なんですか」
 これまでどこを見ても手掛かりが掴めなかったことをYさんに訊いた。けれどもその答えはなかった。代わりにYさんは「ここは隣接した区域の飛び地なんだ」とだけ言った。
 参ろうとするこの社も、何の神のものか知れなかった。拝殿には着いたが、やはり暗くて社名も由緒も分からない。
 そのとき、我々の背後から強い明かりがさっと射した。どこからやって来たのか、神社の敷地のすぐ外をぐるりと巡る車道を行く、絢爛な山車が雑木林ごしに見えた。山車は静々と街を練っていく。山車の上には幾人も乗っていて、太鼓や笛を演じたり、舞いを舞っているようだが、彼らを縁取るように照らされるライトの光が烈しくて、よく見えない。乗る者たちのせわしない動きにもかかわらず、山車は無音だった。
 向きを換えた山車の光で、社の名が顕わとなった。「不士神社」とある。富士や不二はよくあるが、これは珍しいなとYさんは言った。
 参道を戻り再び鳥居をくぐると、正面に迫った海岸まで歩いた。途中、通りの脇に立つ青銅らしいモニュメントを見ると、そこには細い字で「ようこそ不士川温泉へ」と書かれていた。してみると、ホテルとお宮を隔てて流れているのが不士川なのだろう。大した川幅もなかったものだが、だというのに海の方から遡行してくる巨大な客船が見えた。大学前のターミナルから、今ついた便なのだと納得した。
 海はしんとして、墨のように黒かった。湾曲する海岸線の彼方にある山車は変わらずまばゆい。Yさんは煙草を取り出すと火を点けてゆっくりと吸った。私は粘りを帯びたような海の水を見るともなく見ていた。
 失踪した二人の行方は知れない。ただ、二人は元から居なかったのだと自然に思い至っていた。

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