フランス近代史

歴史

フランスの近代史は非常に興味深く、多様な出来事があります。ブルボン朝(1589–1792)、近代(1789-1944)、現代(1944-現在)に分けて、簡単に説明します。

ブルボン朝(1589–1792)

ブルボン朝は、フランス王国の王朝として1589年に成立しました。この時期には、アンリ4世、ルイ13世、ルイ14世といった有名な国王が登場しました。

アンリ4世は、ユグノー(フランスのプロテスタント)出身でしたが、カトリック国家であるフランスの王位を継承するためにカトリックに改宗しました。これにより、長年続いていたカトリックとプロテスタントの対立(ユグノー戦争)を終結させることができました。1598年には、ナントの勅令を発布してプロテスタントの信仰の自由を認めるとともに、一定の自治権や軍事力を与えました。これは当時としては画期的な宗教寛容政策でした。アンリ4世はまた、農業や工業の振興や道路や運河の整備などでフランス経済を発展させました。彼は「私の国民は皆日曜日に鶏肉を食べられるようにしたい」と言って、国民の生活向上に努めました。しかし、1610年にカトリック過激派に暗殺されました。

ルイ13世は、アンリ4世の息子でしたが、父の死後9歳で即位したため、母マリー・ド・メディシスが摂政として政治を行いました。しかし、マリー・ド・メディシスは外国人であることや贅沢な生活ぶりなどで不人気でした。ルイ13世は16歳になった1617年に母を追放し、自ら政治を行うようになりました。彼は宰相リシュリューと協力して貴族やプロテスタントの反乱を鎮圧し、王権を強化しました。また、三十年戦争(1618年~1648年)に介入してハプスブルク家(オーストリアやスペインなど)に対抗し、フランスの国際的地位を高めました。しかし、彼は病弱であり、1643年に41歳で死去しました。

ルイ14世は、ルイ13世の息子でしたが、父の死後5歳で即位したため、母アンヌ・ドートリッシュが摂政として政治を行いました。彼女もまた宰相マザランと協力して貴族やプロテスタントの反乱(フロンドの乱)を鎮圧しました。ルイ14世は23歳になった1661年にマザランが死去した後、自ら政治を行うようになりました。「国家とはわれなり」と言って絶対王政を確立し、「太陽王」と呼ばれました。彼はヴェルサイユ宮殿を建設して王宮とし、貴族たちを集めて自分の支配下に置きました。彼は自ら政治や軍事に積極的に関与し、強力な中央集権体制を築きました。彼の治世はフランスの最盛期とされ、多くの戦争や領土拡大を行いました。また、文化や芸術の保護者としても知られ、モリエールやラシーヌなどの劇作家やルブランやルイサンなどの画家を支援しました。彼は1715年に77歳で死去しました。

ルイ15世は、ルイ14世の曾孫でしたが、王位を継承した時は5歳でした。彼は「愛される王」と呼ばれましたが、実際には無能で放蕩な王でした。彼はオーストリア継承戦争(1740年~1748年)や七年戦争(1756年~1763年)に参加しましたが、イギリスやプロイセンに敗れて植民地や領土を失いました。また、フォンテーヌブローの勅令(1685年)でナントの勅令を廃止したことで多くのプロテスタントが国外に逃れて人口や資本が減少しました。彼は1774年に64歳で死去しました。

ルイ16世は、ルイ15世の孫でしたが、王位を継承した時は20歳でした。彼は善良でありましたが、決断力に欠ける王でした。彼は財政危機を解決するために税制改革や財政改革を試みましたが、貴族や聖職者などの反対に遭いました。また、アメリカ独立戦争(1775年~1783年)ではアメリカ側に味方してイギリスに勝利しましたが、その代償として国債が増大しました。1789年には、第三身分(平民)が国民議会を開いてフランス革命が勃発しました。ルイ16世は革命派と妥協することもありましたが、逃亡を試みたり外国軍に助けを求めたりするなどして信用を失いました。1793年には裁判にかけられて死刑判決を受け、ギロチンで処刑されました。これによりブルボン朝は崩壊しました。

近代(1789-1944)

フランス革命は、1789年に三部会の招集とバスティーユ牢獄の襲撃をきっかけに始まりました。国民議会や国民公会が成立し、人権宣言や憲法が制定されました。しかし、王権の廃止やルイ16世とマリー・アントワネットの処刑などにより、内外の反対勢力との対立が激化しました。恐怖政治や総裁政府などの混乱期を経て、1799年にナポレオン・ボナパルトがクーデターを起こして統領政府を樹立しました。

ナポレオン・ボナパルトは、1804年に皇帝に即位し、第一帝政を開始しました。彼は内政では法典や教育制度などの近代化を推進し、外交ではイギリスやオーストリアなどの列強と戦ってヨーロッパの覇権を握りました。しかし、1812年にロシア遠征に失敗して大敗北を喫し、1814年にパリが連合国軍に占領されて退位しました。1815年に百日天下と呼ばれる復活を果たしましたが、同年のワーテルローの戦いで再び敗れて最終的に失脚しました。

ナポレオンの失脚後は、ブルボン朝が復活して王政復古が始まりました。しかし、ルイ18世やシャルル10世は反動的な政策を行って国民の不満を高めました。1830年にシャルル10世が自由主義的な新聞や選挙制度を廃止する勅令を出したことで、七月革命が起こりました。シャルル10世は退位して亡命し、オルレアン家出身のルイ・フィリップが国王に即位しました。これを七月王政と呼びます。

ルイ・フィリップは「市民王」と称されて自由主義的な政治を行いましたが、貴族やブルジョワジーに偏った政治であったため、労働者や共和派などの反発を招きました。1848年にルイ・フィリップが選挙法改正を拒否したことで、二月革命が起こりました。ルイ・フィリップは退位して亡命し、第二共和政が成立しました。しかし、同年の大統領選挙でナポレオンの甥であるルイ・ナポレオン・ボナパルトが当選しました。

ルイ・ナポレオン・ボナパルトは、1851年にクーデターを起こして憲法を廃止し、1852年に皇帝に即位して第二帝政を開始しました。彼は内政では鉄道や銀行などの近代化を進め、外交ではクリミア戦争や普墺戦争などに参加して国威を発揮しました。しかし、1860年代から反対勢力が強まり、1870年に普仏戦争に敗れて捕虜となりました。第二帝政は崩壊し、第三共和政が成立しました。

第三共和政は、1871年にパリ・コミューンの反乱を鎮圧した後、1875年に憲法を制定して安定した政治体制を確立しました。この時期はフランスの黄金時代とも呼ばれ、産業や文化が発展しました。しかし、外交ではドイツとの対立が続き、第一次世界大戦に参加しました。フランスは連合国側の主要国として戦い、ドイツに勝利しましたが、多くの人的・物的損失を被りました。戦後は不安定な政治や経済の状況に陥りました。

1930年代には世界恐慌やファシズムの台頭などの影響で社会不安が高まりました。1936年に人民戦線内閣が成立し、労働者の権利や社会保障などの改革を行いましたが、経済危機や政治対立などで短期間で崩壊しました。1939年に第二次世界大戦が勃発し、フランスは再びドイツと戦いましたが、1940年に敗北して降伏しました。フランスはドイツに占領され、ヴィシー政権と呼ばれる傀儡政権が成立しました。しかし、ド・ゴール将軍ら自由フランス軍やレジスタンス運動などの抵抗勢力も活動しました。1944年に連合国軍がフランスを解放し、ナチス・ドイツの支配は終わりました。

現代(1944-現在)

1944年8月、シャルル・ド・ゴール将軍がパリに入城し、臨時政府を樹立しました。1946年には、第四共和政が成立しました。フランスは先の戦争で多くの損失を被り、植民地帝国は崩壊しました。特にアルジェリアでは1954年から1962年まで独立戦争が続き、フランス政府は強硬な態度で対応しましたが、国内外で批判を浴びました。1958年にはド・ゴール将軍が復帰して第五共和政を樹立し、アルジェリアの独立を承認しました。

ド・ゴール政権は外交面でも独自の路線を歩みました。1960年には核兵器の実験に成功し、核保有国となりました。1966年にはNATOから離脱し、米英と距離を置きました。一方で欧州統合にも積極的に関与し、1957年にローマ条約で欧州経済共同体(EEC)の設立に参加しました。また、旧植民地やフランス語圏の国々との関係も重視しました。

ド・ゴール政権は内政面でも改革を進めましたが、社会的な不満も高まりました。1968年には学生や労働者が抗議運動を起こし、五月革命と呼ばれる大規模な社会運動が発生しました。ド・ゴール政権は一時危機に陥りましたが、国民投票や総選挙で支持を得て乗り切りました。しかし、1969年には地方分権や上院改革などを問う国民投票で反対多数となり、辞任しました。

ド・ゴールの後を継いだジョルジュ・ポンピドゥー大統領は、経済成長や社会安定を重視しましたが、1973年の第一次石油危機で経済が停滞しました。1974年にポンピドゥーが死去すると、ヴァレリー・ジスカール・デスタン大統領が就任しました。彼は自由主義的な経済政策や社会改革を行いましたが、失業率の上昇や汚職事件などで支持率を下げました。1981年の大統領選挙で敗れ、フランス社会党のフランソワ・ミッテラン大統領が就任しました。

ミッテラン政権は社会主義的な政策を採り、公共投資や社会保障の拡充などを行いましたが、財政赤字やインフレなどの問題も生じました。1986年には国民議会で右派が多数派となり、共産主義者と社会主義者の連立政権は崩壊しました。ミッテランは右派のジャック・シラク首相との共同執政(コアビタシオン)を余儀なくされました。1988年には大統領選挙で再選され、エドゥアール・バラデュール首相との共同執政に入りました。

1990年代には欧州統合が進み、1992年にマーストリヒト条約で欧州連合(EU)が発足しました。フランスはEUの中心的な役割を果たしましたが、国内ではEUへの不満やナショナリズムも高まりました。1995年にはシラクが大統領に当選し、アラン・ジュペ首相とともに自由主義的な改革を推進しましたが、労働者や学生から強い反発を受けました。1997年には国民議会で左派が多数派となり、シラクは社会党のリオネル・ジョスパン首相との共同執政に入りました。

2000年代に入ると、フランスはテロや移民問題などの課題に直面しました。2001年9月11日にはアメリカで9.11テロ事件が起こり、フランスも対テロ戦争に参加しました。しかし、2003年にアメリカがイラク戦争を開始すると、フランスは反対の立場を取りました。2002年には大統領選挙でシラクが再選されましたが、第一回投票で極右政党国民戦線のジャン=マリー・ルペン候補が第二位になるという衝撃的な結果となりました。2005年にはEU憲法批准の国民投票で反対多数となりました。同年にはパリ郊外で移民系住民と警察との衝突が発生し、全国的な暴動に発展しました。

2007年にはニコラ・サルコジ大統領が就任し、保守的な政策を採りました。彼は経済成長や雇用創出を目指し、労働市場や年金制度などの改革を行いましたが、社会的な不平等や貧困問題も深刻化しました。また、移民やイスラム教徒に対する厳格な姿勢や国家主義的な発言も批判されました。2012年の大統領選挙で敗れ、社会党のフランソワ・オランド大統領が就任しました。

オランド政権は社会主義的な政策を採り、所得税の増税や最低賃金の引き上げなどを行いましたが、経済成長は低迷し、失業率は上昇しました。また、同性婚や安楽死などの社会問題に対する改革も保守派から反発を受けました。外交面ではマリや中央アフリカなどの旧植民地での軍事介入やシリア内戦への関与などを行いましたが、テロの標的にもなりました。2015年にはパリでイスラム過激派による連続テロ事件が起こり、130人以上が死亡しました。2016年にはニースでトラックが人々をはねるテロ事件が起こり、86人が死亡しました。

2017年の大統領選挙では、中道派のエマニュエル・マクロン候補と極右派のマリーヌ・ルペン候補(ジャン=マリー・ルペンの娘)が決選投票に進みました。マクロン候補はEUやグローバリゼーションを支持する自由主義的な政策を掲げて勝利し、大統領に就任しました。彼は新たに「共和国前進」という政党を立ち上げて国民議会でも多数派を確保しました。彼は労働法や税制などの改革を推進しましたが、労働者や学生から抗議デモやストライキなどの反発を受けました。2018年には燃料税の値上げに反対する「黄色いベスト運動」が起こり、全国的な暴動に発展しました。マクロン政権は一時的に燃料税の値上げを凍結し、最低賃金の引き上げや所得税の減税などの譲歩を行いましたが、不満は収まりませんでした。

以上が、フランス近代史に関する概要です。

文化

フランスは言語、芸術、食文化の面で豊かな国です。それぞれについて簡単に説明します。

言語

フランスの公用語はフランス語です。フランス語はロマンス語の一つで、ラテン語から派生した言語です。フランス語は世界中で約2億7千万人に話されており、フランコフォニーと呼ばれるフランス語圏の国々との交流が盛んです。フランスでは地域によって方言や少数言語も話されており、例えばブルターニュ地方ではケルト系のブルトン語、バスク地方ではバスク語、アルザス地方ではドイツ系のアルザス語などが話されています。

芸術

フランスは芸術の歴史を誇る国として有名です。絵画や彫刻を含む約35,000点の美術品を展示しているルーブル美術館や、印象派の巨匠の作品を多数所蔵するオルセー美術館など、世界的に有名な美術館が多くあります。また、フランスは19世紀から20世紀にかけて多くの芸術運動の発祥地となりました。例えば、印象派ではモネやルノワール、ポスト印象派ではセザンヌやゴッホ、キュビスムではピカソやブラックなどが活躍しました。さらに、文学や音楽、映画などでも多くの傑作が生まれました。例えば、文学ではモーパッサンやプルースト、音楽ではビゼーやドビュッシー、映画ではトリュフォーやゴダールなどが有名です。

食文化

フランスの食文化はユネスコの無形文化遺産に登録されています。フランス料理は世界三大料理の一つに数えられており、地域によって異なる郷土料理があります。例えば、リヨンでは豚肉やレバーを使った料理が多く、プロヴァンスではオリーブオイルやハーブを使った料理が多く、ノルマンディ・ブルターニュでは海産物や乳製品を使った料理が多くあります。また、フランス人は食事を大切にし、食事時間は長くかけます。朝食はクロワッサンやパンにジャムを塗ったものをコーヒーやジュースと一緒に食べます。昼食は近所のビストロでカジュアルなランチを摂ります。夕食は家族で食べることが一般的で、フォーマルなレストランへ行ってちょっと高めの食事をすることもあります。

以上が、フランスの文化に関する概要です。

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