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県民の日に思う「職住」の話。

突然だが、私は、埼玉県に住んでいる。

埼玉県では、11月14日は県民の日として、県内の公立学校がお休みだったりする。

そもそも、ちょっと調べてみると、「県民の日」というものがあって、さらにその日に公立学校が休みになる都道府県は、実はかなり少ないらしい。

県民の日を休みにしているのは、茨城県(11月13日)・群馬県(10月28日)・埼玉県(11月14日)・千葉県(6月15日)・東京都(10月1日)・山梨県(11月20日)ぐらいである。それ以外の県の県民の日は所詮記念日でしかない。

県民の日

なるほど・・。実は、私の生まれは群馬県なので、もろに県民の日の恩恵を受けて育った。まあ恩恵というか単純に休みの日が一つ増えて嬉しい、みたいな。なので、県民の日=休みという図式は当たり前に頭の中にあった。

で、話は戻るが、昨日は11月14日、埼玉県民の日。

我が家には、小学生と保育園児の子供が居るのだが、県民の日ということで、小学校も保育園(この保育園は私立のはずなのだが・・)もお休み。それ自体に特に異論はない。私も子供の頃は休んでいたし。

さて、そんな私も今や社会人。ごくごく平均的な立ち位置に居るサラリーマンとして、東京都内の会社に勤めているが、幸い、普段はリモートワークで家で仕事をしている。そのため、子供が休みであっても、私は家で働くということが可能だ。それは大変ありがたい。

それは埼玉県民の日であっても、私には関係のないことで、普段の日と同様に、家で働くことにした。

そうだ、その前に一つ言っておかなければらないことがある。それは、私の勤務する会社は、休日が極端に少ないということだ。まず祝日がない。そして夏休みも、お盆休みも、ゴールデンウィークも、年末年始の休みさえも無い。無いというか、いやたしかに無いんだけど、正しくはカレンダー通りではない。それは、月の休日数が厳密に決まっているため、そこから繁忙期を調整してどの日を休むかを決める必要があるのだ。

とはいえ、家に小さい子供が居ると、バリバリ土日も働くなんてことはしにくく、基本的には土日を休みにしている。祝日も可能な限り、有給休暇を取得して休むようにしている。学校が休みだったりするような夏休みや年末年始なんかの大型連休も同様に、数日間連続は難しいが、1日や2日くらいは頑張って休む。

で、県民の日も、祝日として有給休暇を使ってもよかったのだけれど、ちょうどこの日は打合せもあったし、片付けておかなければならない作業もあったし、ちょっと休みにくかった。なので、通常通り、働かせてもらった。

妻も働いているが、午後からお休みをとってくれた。そういったわけで、午前中は、子どもたち2人は家の中でドタバタ走り回ったりなんだりして遊び、午後からは、妻が公園に連れ出して遊びに行ってくれた。ありがたかった。

だが、これでいいのかな、という思いが拭い切れなかった。

在宅で仕事ができることは、本当にありがたい。もちろん、こういった現在のパンデミックの状況がきっかけではあるのだけれど、これができるなら最初からこうしたかったし、もう満員電車に乗るのすらも今では拒絶反応が出てしまいそうだ。非常に快適ではある。

しかし、家で働くことができるとなると、職場と家の境目が曖昧になるというか、少しよく分からなくなる

プライベートな空間とパブリックな空間を分ける必要性については、様々な意見があることを承知している。私生活を侵食するほど仕事に夢中になるという働き方も分かるし、反対に、仕事とプライベートはキッチリ分けて、家の中では仕事は一切持ち込みたくないという考え方も分かる。そういった、仕事と家庭というテリトリーを分けるか分けないか、というのはどちらの意見も尊重できる。というか、今の私にとっては正直どっちでもいい。

だがそうではない。概念的な「仕事」と「家庭」の距離とか境界の話とは、ちょっと違う。私が言いたいのは、物理的な「職場」と「住居」が近い距離にあること、つまり「職住」についてのことだ。「住職」とも違うよ。お坊さんの話じゃないから。

まず、働く場所。それは色々な捉え方ができるけれど、たとえば、埼玉県とか、市内とか町内。そういう地域に根差した会社や、事業者がある。もしかしたら、事務所や事業所単位でも、その色が出ているところもあるかもしれない。それを職場と呼んだときに、そこで働く人たちは、恐らく大体がその付近の人たちだったりする。つまり、住んでいる場所からそう遠くない。

少したとえが分かりにくいが、ある会社があって、そこの本社とは所在地は違うけれど、とある地方都市に工場があるとする。その工場に働きに来ているパート社員の人は、ほとんど自転車とか車で通える距離に住んでいたりする。近所というほどでもないが、彼らはみんな「地元の人」というわけだ。

これは、「働く場所」と「住んでいる場所」は違うけれど、その間は近いがゆえに、同じ「地元」という共通意識というか、共通の話題があると言える。

他方で、今私が働いている会社は東京にあるけれど、実際に私が業務を行っている物理的な場所は、埼玉の地方都市だ。そして同時にそこは、私が住んでいる家の中の一部屋でもある。

近所には、同じ会社に勤める人は居ないし、何なら、近所に何か雑談や世間話を気軽にしたりできるような間柄の人も、ほとんど居ない。ご近所さんとの関係は悪くはないと自分では思っているが、特に良くもない。良くも悪くも、希薄だ。こういう時代だからということもあるかもしれない。同じ町内の人と話す機会は、ゴミ出しとか回覧板とか散歩するときくらいで、必要最低限に限られてしまう。なんだかお互い気を遣って。

要するに、私の場合は「働く場所」と「住んでいる場所」は同じなのに、「地元」のことを語る機会は少ない。

そして、それは別に、ただ雑談がしたいということにとどまらなくて。いやもちろん私自身の社交性の無さが大きな原因であることは否めない。そうだとしても、近所に住む人たちの間だけでなく、一緒に働く人たちの間であっても、「共通して話せる話題があること」というのはすごく大事だと思うのだ。

話は戻るけれど、上に書いた「県民の日」であっても、それは該当するだろう。

もし私が、埼玉県内の会社の「地元」の事務所や事業所に勤めていたら、このような会話が展開された可能性もある。

「あっ、すみません。
 来週の月曜日、県民の日なんでお休みいただきます。
 子供たち、大宮の鉄道博物館に連れて行きたいんで」

「了解、了解。楽しんでおいでよ。
 うちも、所沢の航空公園行ってくるから休むしさ」

みたいな。

いやー、無いか。無いかもな。

でも、もし無いとしても「県民の日なんで子どもの学校も休みなんですよ」みたいな話題も、地元の人であれば「そうだよなぁ」という理解がある。そんなふうに思う。もちろん、それで休めるか休めないかは、職場環境と仕事の状況に左右されるであろうが。

私が現在勤めている会社で、所属しているチーム内で、もし「県民の日」なんていうワードを出したところで、大半が東京都民である同僚たちにとっては、何ら関係の無いことだし、意味が分からない話題なのだ。「だから何だよ」みたいな。

反対の立場で考えてみても、そう。もし仮に、私が都内在住で、そして独身者であったとしたら、「県民の日なので~」という理由で休もうとする同僚が居たら、それはそれで構わないけれど、自分とは関係の無い話だなぁと思うだけだ。そして、幾ら、「県内のどこどこの施設の入場料が無料で~」と言われたところで「いや知らんし。というか知ってても別に行かないしな」となるに過ぎない。

そうでなくても私は、本当は「週末、子供の運動会が土曜にあるから、その翌月曜日は休みたい」と思っていたとしても、なかなか言いにくかったりする。全ての人が結婚しているわけでもないし、子供が居るわけでもない。そのフィールドに居ない人にとっては、「知らねーよそんなの」という気持ちになるのは致し方ない。

言わば、自分の所属する集団や背景、保有している特性というのは、幾ら自分にとっては重要な要素であったとしても、それとは関連のない人たちにしてみれば「関係のないこと」「瑣末なこと」なのだ

ただし、この多様性の時代、個々人はその人の分だけ様々な生き方が(ある程度は)可能になってきているはずだし、そういう「私には関係無いから」といったシャットアウトを許してしまうと、恐らく本当にドライな関係が出来上がってしまうだろう。それでいいと思う人も居るだろう。だが、社会の中で生きていくということは、他人との関わりを一切持たずに暮らしていくことは恐らくかなり難しい。

だから、未婚の方と既婚の方、子供が居ない人と居る人、女性と男性、嫌煙者と喫煙者、働いている人と働いていない人、子供と大人、ニンテンドースイッチを持っている家庭と持っていない家庭、非埼玉県民と埼玉県民、・・一見対立しているように見える構図であったとしても、互いが互いを慮ることが、スムーズな社会生活を営む上で、大切な視点になってくるだろうとは思うのだ。

蓋し、個人的には、こういったカテゴリ自体があまり気持ちの良いものではないように感じる。しかし、ある一方の立場が弱いものであるのなら、その利益を保護するためには、その差異を認めたうえで対策はあってしかるべきとも思う。言うなれば、フェア(公平)に扱うために必要な措置というべきものかもしれない。

そこに必要なのが「お互いがお互いを理解しようとする姿勢」なのかな、と思う。当然立場が異なれば、考え方も価値観も違うし、向いている方向も違ってくる可能性がある。けれど、その異なる立場を想像して、思いを馳せることをしない限りは、目的を同じにして前に進むことは難しいと思う。

その作用が強く働くものとしては、職場、が最たる例だと考える。働く人は当然人それぞれ様々な特性を持っているが、会社の売り上げ、利益を追求する目的においては、力を合わせて進む必要がある。

あいつのことは知らないからどうでもいい」というスタンスでも仕事はできるかもしれないが、そこは少し歩み寄って、慮ってみて「あいつはこんなことができるし得意だから、今度の仕事は任せてみよう」とか「あの人は時短勤務だから、仕事をお願いするなら●時のほうがいい」とか「部長は喫煙室に居る時が一番機嫌が良いから、そのタイミングを狙おう」ということを知っているのと知らないのでは、出てくる成果に違いが生まれる。上に書いた共通的な認識についても、ここで上手く作用する可能性もある。

途中、話がかなりデカいスケールに広がってしまったのだけれど、何にせよ、職場の中で共通認識が薄いと、そういう「県民の日ってなんだよ、そんなことどうでもいいから働けよ」みたいな冷たい反応になってしまうと思うのだ。そう言われるのが怖くて、県民の日であっても私は働こうと思った。

実際、11月14日は、私は働いた。

でも、子供に対しては、やっぱり少し申し訳なさも感じたのだ。

「ごめんな。
 父ちゃんが埼玉の会社に勤めてたら、一緒に休めたのに」

という思いだ。

結局、休む勇気が出なかったという、私の意気地の無さに帰結するかもしれないが、埼玉県民の日に県内各地の娯楽施設で楽しそうに遊んでいる親子の姿や、そのインタビューを、ネットニュースの記事で見るにつけて、そんなことを思ってしまうのだった。

来年の11月14日は、休もう。休むぞ。休もうかな。
・・休めたら。。


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