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人からは嫌われたくないのに結果として嫌われるの話。

少し仕事が落ち着いてきました。

いえ、実際にはまだ問題は残っているのですが、それに向き合う自分の精神状態が落ち着いてきている。そんな状況と言えます。

さて、最近家の本棚を整理してまして。
昔読んだ本を読み返すことが多いのです。

今回読み直した本はこちら。

「わたし、定時で帰ります。」朱野 帰子 (新潮文庫)


テレビドラマ化もされた作品です。

かく言う私も、最初はドラマの方から入りました。まずドラマを全話分観て「面白いなぁ」と思って、それで原作の小説を買って読みました。

ドラマも小説もそれぞれ違った良さがあります。そして、本は読むたびに新たな気付きもあって楽しいですね。

で、今回ちょっと現在の仕事と絡んで思ったことがありましたので、レビューと言いますか、少し思ったことを。

話の詳細は割愛しますけど、この作品に出てくる人物がどれもリアリティがあると言いますか、愛着が湧く。いや、愛着は湧かないかな。「実際に傍に居たらめんどくせぇだろうなぁ」と思わせてくれるほど、人間味がある。

ワーカホリックな同僚とか、無責任な役員とか、生意気な新人とか。そういうキャラクターは、小説の世界なので突出したように描かれてはいるんですけど、読んでいて「居るんだよなぁこういう人」と感じます。

中でも、私が感情移入というか気になってしまう登場人物が居ます。それは、福永清次、という男。

ここからは少しネタバレになりますけど、この福永という男がラスボスと言いますか、事件を起こす発端になっていてその後も現場をかき乱し、主人公を最初から最後まで振り回し続ける元凶なんですよね。

福永は、主人公の所属するチームのマネージャーに就任する。そして赤字の案件をとってくる。お客さんに良い顔をしてホイホイと追加予算も無しに要求を受け入れていく。チームメンバーに残業や休日出勤をさせていく。納期まで時間が無いのに「朝活をやろう」だとか「このプログラムは美しくないから全部やり直そう」とか言い出す。狂ってます。

こういう人が居るから、無茶な仕事が生まれて、劣悪な労働環境になって、働く人が苦しんでいく。

ただ、私個人は、この福永という男を完全に悪者のように見ることができません。

小説でもドラマ版でも、やっぱりこの人は、もし自分の近くに実際に居たら最悪に嫌な人なことは確かなんですけど、でも彼は、多分「悪気(わるぎ)」は無いように思うんです。

誰かを貶めようとして、嫌がらせをしようとして、いじめようとして、現場メンバーに無理をしているわけではないということ。

彼自身は「嫌われたくない」という思いをずーっと一貫して持っている。そんなふうに目に映りました。

嫌われたくないから、お客さんに強く言えない。
嫌われたくないから、無茶な仕事も引き受ける。
嫌われたくないから、部下に無理強いしてでも無茶な仕事を完成させる。

嫌われたくないから。

もし仕事を断ったりでもしたら、「あいつは無能だ」と周りから笑われたり、自分の評価が悪くなったり、さらにはリストラされたり。最悪、仕事を失うことで路頭に迷うかもしれない。

そういう恐怖があるのだと思います。

小説には書かれていませんでしたが、たしかドラマ版では福永は最後に「仕事が無いよりあったほうが良いじゃん。なんでみんな僕に感謝しないの」的なセリフがあったように思います。うろ覚えですけど。

つまり、福永は「悪気」どころか「善意」でそういう状況を作っているんです。

彼のバックグラウンドとして零細企業の元経営者というのがあるんですが、事業が上手くいかなくなって従業員がどんどん離れていって、仕事が何も無くなる恐怖みたいなのを味わったと想像します。

だから、馴染みの取引先から無理な工数と納期の仕事もホイホイ受ける。自分より立場が上の役員やゼネラルマネージャーには文句を言えないから、チームメンバーには家族同然で頑張ることを強いて「仕事」という素晴らしい共通目的に向かって進んでいく。

でも、だから厄介なんですよね。

そこに欠けているのは圧倒的に他者への想像力。
あるのは、実は、自己愛だけ、です。

自分が嫌われたくない。自分さえ嫌われなければそれでいい。自分より下の立場の人にどう思われてもいい。仕事というフィールドにおいて、大事なのは自分より立場が上の人たちや、仕事そのものをくれるお客さんだけ。

部下や下請け業者などももちろん大事ではあるんですけど、それは仕事を完遂させるための道具であり、取り替え可能な存在。あるいは、そこまで冷徹に思っていなくても「家族同然」だから無理させてもいい(無理をしてでも一緒に頑張ろうよ、という)存在とでも思っているかもしれません。

そこには、部下や下請け業者が一人一人の人間であるという想像が欠落していて。自分が仕事において悪い評価がつかなければそれでいいという、偏った(そして誤った)価値観しか存在しないのです。

でもそれって、冷静に考えてみたらおかしい。

最終的には嫌われるようなことをしています。

そんな状況になれば、部下や下請け業者には当然嫌われますし、劣悪な労働環境に自ら進んで発展させることで、もし彼らが倒れたり離れたりすれば上からの評価なんて良くなるはずがなくて。そうでなくとも、利益の出ないような働かせ方をすることで、一時的にはお客さんは喜んだとしても、その皺寄せを食う人間からは確実に恨みを買うことになる。

嫌われたくないと思って起こした行動が積み重なって、結果的に嫌われるような事態を招いているんです。

私には、この状況を「フィクションだから」と割り切る気持ちにはどうしてもなれないのです。

福永ほど極端なケースは稀かもしれませんけど、こういうことは、多かれ少なかれ結構みんなやっているんじゃないかなと。

かく言う私自身も、多分やっている。
と言うか、これはかなり根深くて。

私のように不器用で人嫌いで小心者な人間にとっては、常について回るような厄介な考えだったりすると思うのです。そして私も常にその気持ちと闘っているように思います。

「嫌われたくない」

実際には現実の誰のことも具体的には想像していなくて、自分の頭の中でだけ想像した空想の誰かでしかない。そしてその誰かが自分に向けた視線に怯えている。そんな空虚な恐怖が、その根本にあると思うのです。

嫌われたくない、と思っていたはずなのに、
結果的に嫌われるようなことをしている。

私は、福永という男が好きにはなれませんが、嫌いにもなれない。

それはきっと自分の中にも彼のような人間が潜んでいるからなんだと思います。

今、少しだけ仕事が落ち着いてきた中で、改めてそのようなことを考えて、仕事を見てみようと思っています。

「これって、誰のための仕事?」と。

その答えを自信を持って出せる時は、多分ですけど、「嫌われたくない」というハリボテの恐怖から解放されているだろうと思うわけです。

まあ何にせよ、目下仕事において私が一番大切だと思っている思想は「定時で帰る」これに限ります。おわり。

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