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カーラジオと自分の時間の話。

今時、カーラジオなんて言い方はしないのかな。クルマに搭載されているのは、カーステレオ、いや、カーオーディオか。カーナビが一体になったオーディオと呼ぶべきか。

ところで、我が家で乗っているクルマは、最新型というわけではない。中古で買ったものだし、搭載している装備なんかも元々ついていたものだ。カーナビも買った時から入っていた。

しかしカーナビと言っても、その一つの機器の中に様々な機能があった。オーディオ機能では、CDの録音・再生と、Bluetoothで接続したデバイスでの再生。それと、メディアで言うと、DVD再生、そしてテレビとラジオだ。

子供を乗せて運転していると、基本的にはDVDかテレビを流しているのだが、自分一人で乗るときには、もっぱらラジオだ。

学生時代、私はいつもAMラジオ派だったのだが、今はFMだ。一人でクルマに乗るタイミングなんてほとんどいつも同じ時間帯なので、聴く番組も大体同じだ。

今年2022年は沖縄本土復帰50周年ということで、聴いていたラジオ番組では、今週は、沖縄に縁のある楽曲特集だった。二十代の頃には何度か観光で遊びに行かせてもらったくらいで、私は沖縄に縁もゆかりもないが、それでもどの曲も心に響くものばかりだった。琉球音階のメロディや三線の音色を聴いていると、静かな海のように、心が何となく穏やかになっていくような気がする。

それから思い出すのは、まだ結婚する前、妻と一緒に沖縄旅行へ行った時のことだ。その当時の私は休みの多い会社に勤めていたので、長期休暇をとって、よく遠方に旅行に出かけていた。妻と沖縄へ行った時も、何日間か連泊して、那覇の町を練り歩いた。

私は「ザ・観光名所」といった場所にだけ行きたいタイプなのだが、妻は「地元の人しか行かないような場所」が好きで、全く真逆のタイプだ。だから、那覇でも、私は国際通りを歩いても表通りに面したお店しか行きたくなかったが、妻は、裏通りの本当に地元民の人たちしか居ないようなお店に行きたがる。そこでの思い出は色々あって書ききれないので割愛するが、「地元」と「観光」とでは、やはり圧倒的なギャップがあるのだな、と思った。

沖縄の音楽を聴いていると、メロディや楽器としての耳障りの良さもある一方で、どこか哀愁というか、悲しさを感じずにはいられない。それは、当然、歴史的な話が根底にあるのだろうと思う。これ以上はこの記事の趣旨とは外れてしまうため深入りしないが、やはり町が持つ背景というものが、歌の中に深く深く浸透しているような気もする。

ラジオから流れる心地良い音楽を聴きながら、そのようなことを思った。

また、先日、夕方に一人で、洗濯物を乾かしにコインランドリーへ行った時には、「secret base ~君がくれたもの~」が流れていた。この曲は、私が中高生の頃に大ヒットしていて、それこそ至る所で耳にしていた。ただ、当時の私はスカしていて、意地になって流行りに乗らないようにしていた。

だから、失礼な話で申し訳ないが、そこまで「好きな歌」という認識は無かったのだ。それが、こうしてラジオで改めて聴くと、なぜだかものすごい懐かしさを感じた。

当時はそんなふうに思わなかったし、歌詞にあるような甘酸っぱい体験を私はしたことはなかったが、自分がその当時に経験したあらゆる出来事の中にあった色んな要素が、音に乗ってポツポツ浮かび上がるというな感覚があった。「あぁ、なんか、このフレーズやこのメロディ、懐かしい」というような気持ちになった。

上手く表現する自信は無いが、当時耳に残っていたメロディが、忘れていた思い出の一つ一つを一緒に引っ張り出してくれるというか。不思議な気持ちで、なんとも懐かしかった。特に思い入れは無かったはずなのに、聞き入ってしまった。

上で挙げた沖縄ソング特集の時も思ったのだが、ふとした瞬間に、自分に向き合っている。ラジオから流れてくる歌は、「自分で聴こうと思って再生した歌」ではない。基本的には、自らの意志ではなく、誰かの意志によって流されている(もちろんリスナーからのリクエストとかはあるけれど)。

これによって、自分の意識していないところが呼び起こされて、自然と自分と向き合う時間が生まれているような気がする。色眼鏡のない状態で、まっさらな覚悟していない状態で、耳にする楽曲。なんとも新鮮で、楽しい。もちろん、自分が好きで聴きたくて再生する曲も良いが、こうやって意図せず聞こえてくる曲も、また良い。耳にしたことのあるものでも、違った見方ができる。

日常の中で、たまにしかない時間だからこそ、何だか貴重に思える。ラジオってやっぱり好きだ。

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