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声なき人々よ

誰のためでもない、小さな抵抗を続けている話。

15年ぶりに出身中学校を訪れた。
外観も内観も私の記憶とはずいぶん違う姿になっていた。建て替え工事の真っ最中とあれば、それもそのはず。

思うところはいくつもあった。
懐かしさ、若さの熱さ、どことない落ち着かなさ。中学校での思い出は私にとってよいものの方が多く、そうはいっても沁み入るものがあった。

ただ、ズシリと心に重たく残ってしまったことがある。卒業アルバムを開き、私の同級生たちについて話す教師たちの姿だ。

「誰それは一流企業に勤めて〜」
「もう子どもが2人もいて〜」
「昔から優秀で大学も〜」

誇らしげに、嬉しそうに目尻を細める教師。

屈託のない笑顔で写っている卒業写真。
その中で指さされるのは、今まさに眩しく輝く道を歩いている人ばかり。もちろん彼らにも悩みや人に知られぬ努力があるだろう。色々な過去があったろう。もちろん、胸を張って歩む姿は素晴らしいと思う。

けれども、それでも、やはりここにいない、語られない人たちはどうだろうか。
人に会うのが怖い、恥ずかしいと怯えている人もいるだろう。苦しさの中でもがいている人もいるだろう。もうどうだっていいと、過去をしまい込んでいる人だって。

彼らの今を語る人はいないのか、見つめる人もいないのだろうか。

実は、以前に参加した同窓会でも同じように心がチクリと痛んだ。同窓会に来られる人たちは、良くも悪くもここに来られる人だ。そうでない人はどうだろう。

ワイワイと盛り上がる一方で、あったはずの日々も、見えていた思い出もなかったかのように、また新しく造られていく。
そこに悪意がなくても、なにもなくても。
そう、なにもなくても。

誰が悪いわけでもない。
責めたいわけでもない。
自分が正しいと叫びたくなんかない。
ただ、ほんの少し心が重く、息苦しさを感じるのだ。寂しいのだ。

こんな、どうしようもない葛藤に向けて、私なりのほんの小さな抵抗をしている。
妙な物差しやメガネを捨てることだ。できなければ振り払うのだ。
どこに勤めてるだとか、結婚しただとか、子どもはどうだなんてことを尋ねない。
滑稽かもしれないが。

いま、あなたと在る、それだけ。

いない人達にも想いを馳せる。
そして、想いを形に、声にして届けるのだ。
あなたを覚えている、と言いたくて。

大きな声は苦手だ。
小さく、ささやくような声は嫌いじゃない。

声なき者の声を聞きたいのだ。

2人でこっそり、クスクス笑ってポロポロ泣いて話をしよう。それでいい。
声が聞きたい。

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