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祖母の黒い服 #5

 祖父は親戚のつてで、遠く離れた熊本の人吉で開業医を始めることになった。お国言葉もずいぶん違う見知らぬ土地で、若い夫婦にとって冒険のような新しい生活が始まったのだ。

 お嬢様育ちの祖母には、最初は慣れないことばかりだったに違いない。それでも、毎朝、熱湯でガーゼを煮沸するなど、夫の診察の準備も怠らず、いずれはきちんと看護師の資格を取る勉強をするつもりでいたのだと、戦後、九州の病院で看護婦になった伯母から聞いたのは、祖母が亡くなってずい分経ってからだった。今のように女性が自由に職業を選べなかった時代、祖母は人生の成り行きで得た自分の務めに腹をくくって取り組んでいたのだろう。その中で祖母なりの志も生まれていたことを知り、私は胸が熱くなった。子育てをしながら、医院の仕事を支えていた祖母の姿を想像したとき、何事にもどっしりと構えていた祖母の強さの理由が少しだけ分かったような気がした。

 あっという間に7、8年が過ぎ、地域の人たちにもすっかり馴染んだころに、太平洋戦争が勃発した。祖父は軍の命令で愛媛の善通寺に軍医として出向することになり、一時的に熊本を離れた。祖母もまた、子供たちと同伴していたようだ。

   祖父はクリスチャンだった。職業柄、心の支えが必要だったのだろうと祖母は言っていた。私は祖父のことをほとんど何も知らないが、阿波の人らしく、みかんが好物で、酔っ払うとよく踊っていたらしい。

    夜中にふと思い出したように、祖母が焼きおにぎりを作ってくれたことがあった。祖父が夜食に好んだという。小さめに握った三角のおにぎりを、鉄のフライパンに並べて焦げ目をつけ、仕上げにジュっとお醤油を垂らす。おじいさんは焼き加減にうるさかったと言って、祖母はフライパンからひと時も目を離さなかった。熱々の焼きおにぎりは焦げた醤油の匂いがなんとも香ばしく、夜中に食べられるのもちょっぴり特別な感じがして、本当においしかった。祖母はなつかしそうな顔をして、私たちが食べるのを見ていた。


 当時の自宅兼医院は、球磨川に近い場所にあったという。夏の暑い日にどうしても泳ぎたくなった祖母は、子供たちとの散歩の途中、河原に子供を待たせたまま中洲まで泳ぎ、また泳いで戻ってきたことがあった。大好きな映画を観に行って、うっかり夕食の支度を忘れてしまったこともあったようで、家庭を持っても奔放な祖母は健在だった。

 夫と子供たちと一日一日を精一杯暮らした日々。苦労は計り知れないが、きっと生きている充実感に満ちた、祖母にとって大切な時間だったのではないかと思う。

 私が子供のころに祖母と住んでいた古いアパートの、台所の棚の奥深くには、骨董品のような茶色いガラスの薬瓶や白い乳鉢が、いつまでも捨てずに置いてあったのを今でも覚えている。

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