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雪の蔓

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  11月も終わりに近づき、本格的な寒季が訪れた。まだ20度は切っていないが、昔ながらのタイ式木造2階建ての我が家は寒い。外壁は薄い板張りで、暑い時期は風通しが良く快適だが、この季節になると朝夕はそれなりに冷える。
 明け方、向かいの家の鶏の声が薄い壁を突き抜けて、まるで枕元で鳴いているかのようにけたたましく響いた。不思議なもので、毎朝の鶏の声にはすっかり慣れてしまって、うるさいと感じなくなっていたが、前日に接種したワクチンの副反応らしい頭痛のせいか、今日は一声で目が覚めてしまった。 
 もう朝の5時は過ぎているはずだが、頭を上げることができずに床でぐだぐだしていると、さざ波のような蜂の羽音が聞こえてきた。昨日満開を迎えた庭のラダーワンの花に集まっているんだと、ぼんやりと思った。

「雪が積もっているみたいだよ」先に起きだした夫が窓から庭を見下ろしている。南国のタイに住んで長い私にとって、「雪」は遠い世界のあこがれのワードだ。その言葉に反応して、ようやく起き上がる気になり、窓から外を眺めた。    
 駐車スペースと夫の仕事場の屋根一面が真っ白な花で覆われていて、薄明るい朝の光のなかで、たしかに雪が積もったみたいにほーっと淡く発光しているようだった。                       

 ラダーワンは蔓科の植物で、年に1度か2度、無数の小さな白い花を咲かせる。

   屋根の上の方は昨日よりも花が増えていた。英語で「snow vine(雪の蔓)」という名の通り、花が咲くと蔓が覆う屋根全体がふかふかとした純白の雪の絨毯のようになり、軒先からは、氷柱めいた白い花房が幾筋も垂れ下がる。明け方から漂う甘く爽やかな香りに誘われた大小さまざまな種類の蜂たちが、蜜や花粉を集めに幾千と飛び交い、花影を揺らしていた。


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 ここに引っ越してきたのは8年前だ。その年、駐車スペースの日よけになればと、大家さんが、あなたが好きな白い花が咲くわよと、1本の小さなラダーワンの苗を植えてくれた。
  けれども、最初の2年は駐車スペースを覆う鉄枠の蔓棚に、ただただ蔓を伸ばすばかりで、一向に花を咲かせる気配はなかった。3年目になって蔓棚全体を覆うまでに成長すると、満を持してたくさんの花を咲かせた。南国にありがちな華やかでどこか大味な花ではなく、透けるように白い小さな花は繊細で美しかった。それ以降は、毎年欠かさず咲くようになった。

 朝食を食べていると表で人の声がした。出てみると大家さんとバンコクから遊びに来たという彼女の友人たちが、我が家のこぼれんばかりに咲いた花の前で記念撮影をしていた。大家さんもラダーワンの花を毎年楽しみにしているひとりなのだ。

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 それにしても、今年のラダーワンの成長ぶりはすごかった。木の板を横に張っただけの簡素な我が家の壁にできてしまった小さな隙間を見つけて、蔓棚から家の中へと蔓を伸ばしてきたのだ。屋内への侵入に成功した蔓は、家の中でもつやつやした緑の葉を広げ、さらに伸びるべき方向を探っている。まるでエイリアンのようだ。けれども、ずぼらな私は、野趣あふれるタイのグリーンを飾っていると思えばいいかと、あまり気に留めず、そのまま放っておいた。

 しばらく経ったある日。お茶でも淹れようと台所に立ったときだ。台所の壁にしつらえた棚の上の方まで伸びている緑の蔓が目に入った。知らないうちにこんなところまで伸びるとは、何という生命力だと思った瞬間、蔓はするすると波打ちながら天井へ伸びていくではないか。その先に、黒っぽい小さなヤモリがすばしっこく走るのが見えた。蔓の先には頭があり、一心にヤモリを追いかけていた。それは蔓ではなく、緑色をした蛇だったのだ。
 緑色の蛇、いわゆるグリーンスネークにはいろいろな種類があるが、タイに生息する種にはおおむね毒があると聞く。猛毒で非常に危険な種もある。
 全身が粟立つような感覚に襲われた私は、いったんはその場を離れたが、もし蛇が2階の寝室にでも紛れ込めば大変だ。箒をつかむと無我夢中であちこちの壁や床を叩いて大きな音を立てながら、台所へ突進した。そして、蛇が隠れていないか、家中を念入りに確認した。うーん、どうやら出て行ったらしい。
 ひとまずはほっとしたが、私は家の中に伸びていた蔓と壁の穴とを交互ににらんだ。蛇はこの蔓を伝って壁の穴から侵入し、そこから出ていったとしか考えられなかった。グリーンを楽しむどころではない。即座にぶちっと蔓をむしりとり、壁の穴を塞いだ。

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  その後もラダーワンの蔓は成長を続け、駐車スぺ―スの日よけどころか、夫の仕事場の屋根をも覆いつくす勢いだ。恐ろしいような繁殖力だが、いっせいに小さなつぼみが付くと、とたんに愛らしく感じられるのである。1年に1度か2度しか咲かないその花が、もっとも美しく満開に輝くのはたった1日で、桜より短い。早朝に咲いた花は純白だが、午後を過ぎるとまるで太陽の陽に染まったようにクリーム色になり、翌日にはぐったりと萎れてしまう。
 はかない花だから、咲くとこんなにも嬉しいのかもしれない。近所の人たちも、今年はいつ咲くかと、つぼみの膨らむ様子を観察している。そして、満開の朝を迎えると、花をバックにご近所さんたちと写真を撮るのが恒例のイベントになった。
   今年は11月22日に満開を迎えた。朝日のさすほんのひと時、今までで一番の花を咲かせたラダーワンをみんなで愛でた。

 その日、私は市内の病院でワクチン接種の予約をしていたため、ばたばたと外出をして、戻ってからはすぐに寝てしまったので、午後からは花を愛でることができなかった。
 ところが、ありがたいことに、今年の花は2日目も美しかった。副反応の頭痛はしぶとく続いていて、朝から体も頭もずんと重いので、外出は控えて家で過ごすことにした私は、朝食を終えると2階の窓を開け放した。陽を受けたやわらかな花の色と清々しい香りが、ゆっくりと部屋に満ちた。

 その夜、この季節に珍しく雨が降った。にわか雨程度ではなく、けっこうしっかりとした雨が明け方近くまで降り続いた。朝起きて、窓からラダーワンの蔓棚を見下ろすと、濡れそぼった花房はしおれて下を向いている。花に残った雨粒は、朝日を受けて輝いていた。

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