第三十二回 ボードレール『計画』


或る日のデート妄想

...と断定してしまえば身も蓋もない、というかネタバレなのですが、
「恋する男」が「女」との
きらびやかな宮廷生活や、
南国のエキゾチックな生活、
いやいや、幸福は案外近くにあるものさ、と
夢想が2転3転する短編小説です。

ここで終わっておけば、まあいい話風なんですけど、
最後の最後で

「私は今日けふ夢に、同じ様な楽しみのある三つの棲処すみかを得たのだ。私の魂はこんなに軽々と旅をするのに、なぜ私の身体からだの居場所を変へなければならないのだらう! 計画だけでも充分な快楽だのに、何でその計画をやり遂げようとするのだらう?」

妄想は実現しなくていいじゃん!と開き直っているところに、
詩人・ボードレールの非凡さがあるように思えます。

はたから見るとその「意中の相手」が別の男とできちゃったら、
こんな悠長に構えておれまい、と思うのですが...。(余計な世話焼きですね...)

現代だと二次元キャラやオンラインでの「恋」も盛んなので、
共感するひとも多いかもしれませんね、
というところで、参加者から「待った」がかかりました。

古典を現代人の感覚で読むことは正しいのか?

こんな議題を提出いただいたのです。
「昔と現代では生活が違う。たとえばインターネットなど。
それを計算にいれずにそのまま共感したりするのは、
間違った受け取り方をしてしまうのではないか?」

う〜ん、確かに、一理ある、どころか万理ありますわ。
研究者であれば「背景」のところを綿密に調べるでしょう。
参考文献も山と積まれるはず。

なので、主催として、
当読書クラブの根幹、フィロソフィーに立ち戻って、
しばし考え込みました。
https://note.com/furutasu/n/n0fc54d150dec

***

結局、実用のための古典である、と開き直りました。笑
それが「古典が古典たるゆえん」でもあるな、と。

どういうことか。
「時代を超えて読みつがれるから」古典なのです。
それはテクノロジーの進化や文化の変遷を超えても、
人々から共感を得られるのは「人間の本質」を描いているからです。
極端に言えば、現代人にまったく共感されず、役にも立たないのであれば、
それは「古典」としてすでに死んでいるのではないでしょうか。
普遍性を失って「骨董品」としてマニアックな愛好を受けているだけの「死んだ古典」リストも日々、更新されていっているのかもしれません。

もちろん、作品の背景を知ることで理解をより深めることは否定できません。知識以上に得るものも多いでしょう。
ですが、一方で「現代化」、「翻訳」はとてもクリエティブな行為だと思います。

たとえばシェイクスピアの劇は現代でも、多くの国で上映されています。
その際、すべての演出家が「シェイクスピア時代のそのままを上映する」ということに
固執してしまえば、今のように多くの人々に愛され、影響を与えることもないでしょう。
また、『聖書』を始め、多くの創作物でモチーフとして「吸収されている」古典もあります(最新の攻殻機動隊は『1984年』が下敷きになっているそうです)。
いち読者としてみると、古典はアンティークではなく生き物であり、
時代を超えて作者と対峙できるツールなのです。

かっこつけて言えば、「今を生きるための古典」であり、
下卑た言い方をすれば「美味しいとこ取り」なのです。

といいつつ、不勉強のままではいかんなあ、と思いました。
背景の学習も、あわせてやっていこうと思う次第です。

計画のための計画、ありやなしや?

個人的には怖いなあ、と思います。
身体感覚が欠如しているのは、不気味だな、と。

「東洋の王道」「西洋の覇道」という言葉がありますが、
「欲しい!」と思って実現しようと試行錯誤するのが科学的なヨーロピアンスタイル、
「知足」「分相応」で欲望を調整するのがストイックなアジアンスタイル
だとひどく乱暴に理解しています。

対極的なようで、どちらも「妄想」と「現実」を一致させよう、
という力学があるな、と。

なので、ボードレール先生の「提言」は最終的に
・ビャーン、と爆発して事件を起こす
・ドラッグ、ギャンブルなど快楽依存
など破滅的な末路が見えてしかたない。
いろいろな作家が書いた『狂人日記』。
どの「狂っていくプロセス」も、発端は叶わぬ妄想です。
そういう意味でも、ボードレールのこの一篇は、
「人間の本質」を描き出しているのでしょう。

***

「妄想」は「希望」であり、そして「失望」の原因でもある。
だからこそ、失敗せずに物事が進んでしまうと、
それはそれで怖くなってしまう、それは大人になった証拠なのでしょうか?

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