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〔エッセイ〕記憶と動き、色彩と線描

古谷利裕

ドローイングを描く意識

 ドローイングを描くのは、それが、言葉には出来ず、感覚としてもはっきりとは意識化出来ないものを保存し、その反復を可能にしてくれるからだ。それが把握するのは、手の動きであり、手の逡巡であり、手を動かすことによって掴もうとする空間の感触であり、それによって掴まえたものであり、掴まえ損ねたものでもある。

 それは、掴もうとしている空間のあり様の写しであるのと同時に、手を動かしている時のぼくの 「動き」の感覚であり、感覚の集中の度合いであり、それを行っている ぼくを支えている(支配している)気分でもある。そしてその気分は、 ぼくがその時、そこにいる、その空間の状態に多大な影響を受けたものであろう。画面は、それら全てが混合された塊の縮減された幾分かを、 痕跡として記録し、その画面を見返す時、その塊が幽霊のように再度たちあがる。

  実際に手を動かしている時、自分が一体何をやろうとしてい るのか、何を追求し、どんなものを掴もうとしているのかを、自分の「意識」はほとんど知らなくて、 それは何枚も描いたドローイングを後から見返してみて、それも、ある程度「作品」としてまとまった(成立した)ものが出来て、それを見ることによってはじめて、おぼろげに知ることが出来る。

 例えば、ぼんやりと、 または、 考え事をしながら、歩いている時、ふと、今まで気が付かなかった虫の声や騒音にに気付いた(意識に入 って来た)瞬間の感じとか、いつもの見れた道を歩いていて、そこに建っていたはずの家が取り壊されて更地になっていたのに気付いた、その最初の違和感(何故そのような違和感を持ったのかの原因を「知る」前の違和感そのもの)がたちあがった瞬間の感じとか、そういう時のような、感覚がぐぐっと揺らぎ、動く感じが、自分で描いたドローイ ングを見返している時に感じられたとしたら、おそらくそれは、ある程度は何かを掴むことに成功しているのだと思う。

絵を描くことと「世界」の表現

 絵を描くことは、たんに四角い平面の上に、色彩を配置し、それらの関係や響き合いを視覚的な効果として組織することだけのことではない。モデルやモチーフを描くとしても、見たものの視覚的な印象を写すだけではつまらない。あるいは、絵を描く人の個性的な、斬新な、新しい「感覚」だけを見せられたのでは、それほど面白くはない。

 絵の根拠は、それを描いた人の感覚や体に求められるというよりも、 その外に広がる世界に求められると言うべきだろう。では、ただ「見る」ことしか出来ない絵画は、どのようにして、そのフレームの外にある世界と視覚を媒介とする以上の関係をもつことが出来るのだろうか。絵を描こうとする時、絵を描く人はただ視覚だけでモデルやモチーフと(世界と)関わるのでは足りない。 絵画と(その外の、我々がそこに生きている環境としての) 世界とを関係させる媒介は、画家の目であると言うより、画家の身体の全てであり、画家の行為(動き)であると思われる。

 線やタッチにはそれを描いた人の身体の動きが含まれているし、色彩に は、それを描いた人の記憶が混じり込んでいる。 確かに出来上がった絵は、ただそれを見ることしか出来ないが、見ることは常に、見える以上のことを受け取ることであるはずで、見る人はそこ(記憶や動き)までを目を通して自らの身体に流し込むことが出来る。そしてそのような絵画は、たんに絵を描いた人の身体や記憶を表現しているだけではなく、その身体を触発した(あるいは、産み出した)、その身体のまわりにある事物や空間、そして時間を(つまり環境を)表現してもいるのだ。し かしここで「表現する」とは一体どういうことなのだろうか。

「目を閉じる」こと「ポーズをまねる」こと

目を閉じて、見た像を掴まえておきなさい。それから自分自身の感性で制作しなさい。 モデルを相手にしている場合は、自分でモデルのボ ーズをとってみたまえ。 力がはいっている箇所が運動の鍵だ。

マティス『画家のノート』

 これはマティスの指導を受けたサーラ・スタインが記録したものからの引用 だ。見ている対象と、それをキャンバスの上に描くこととの間に、像を捉えるために「目を閉じる」という行為(遅れ)がひとつ挟まるということは、マティスの絵を観ているとすごく納得がいく。いったん目を閉じることによって、像がたんに視覚像であることを超えた、多様な 「含み」をもつことができる。

 例えばセザンヌならば、特に「目を閉じる」ことは必要ないと言うだろう。しかし勿論、ただ見るだけでは絵は描けなくて、毎日、モチーフを見続け、毎日、絵を描き続けるという生活の時間を経ることのなかで、徐々に「像を掴む」(生活する時間の持続によって像を掴む以外にない、とセザンヌは考えるだろう)。愚直なセザンヌは、「目を閉じる」という「半歩後退」を受け入れないと思う(しかしセザンヌのもまた、昼の制作から帰って、夜は眠り、そして次の日の制作に向かうのだから、長いスパンで 考えれば「目を閉じて」いる)。

  マティスにとっては、この「目 を閉じる」ということが、非常に重要な(おそらく終わらない) 制作の技法だったのではないかと推測できる。

 それともう一つ、モデルと同じポーズを「自分でもしてみる」というのも、きわめてマティス的なことであり、これもセザンヌとは異なるところなのだと思う。強引に自分の関心に結びつけるとすれば、「目を閉じる」という行為は、主に色彩を媒介とした空間性にかかわり、「自分でポーズをしてみる」という行為は、主に線猫による空間の把握と関係するように思える。
(デュシャンが、マティスの色彩、絵の前にいる時は把握できず、絵の前から去った後にじわじわその力が作用しはじめて、いつの間にかそれに魅了されている、というよ うなことを言っているのも、ここでいう「目を閉じる」ことと関係するように思う。)

 マティスが室内を描いた絵(例えば「コリウールの室内画」や「赤い アトリエ」など)の持つ空間性は、目によってだけ見られたものではな く、我々の身体が持つ様々な感覚を駆使して空間を触知しようとする時のようなひろがりがある。例えて言うならば、ある部屋のなかをくまなく歩き回り、そこに置かれた様々な物を手に取って、においをかいだりした後に、ゆったりとした椅子に腰かけて、目を瞑り、あらためて今移動した室内空間をイメージしようとした時のような感じに近いひろがりと含みをもつ。マティスの絵が平画化し、物が装飾的に扱われたりするのは、平面上にそのようなひろがりとしての空間をつくり、統合するためであるのだ。

受動から能動へという方向、と、能動から受動へという方向

 よく言われているような、マティスにおける「デッサンと色彩との永遠の葛藤 」(これはマティス自身の言葉でもある)という問題の立て方が、どうも適当ではないのではないか、と、ずっと思ってきた。それはつまり、「目を閉じる」ことで掴まれた像と、(モデルのポーズを自分でもとってみる、というような) 体を動かすことによって掴まれた僕との間に生じる、不可避的なズレのことを言っているのではないかと感じるのだ。

 絵を描くというのは、身体を動かすことである。 それは、線をひくというだけでなく、色を塗るという時でもそうだろう。セザンヌの筆触はまさに、セザンヌの身体の運動によって刻まれているし、筆触を刻むという動きを通じてしか、セザンヌは像を掴むことは出来ないだろう。

 「目を閉じる」という行為は、主に色彩を媒介とした空間性にかかわり、「自分でポーズをしてみる」という行為は、主に線による空間の把握と関係すると少し前に書いたのだが、実際には、ことはそんなにはきれいに分けられない。しかし、絵の具を筆触として、ストロークとして(色彩として)画面に置いてゆくという動きは、どちらかというと、描く身体としての画家の身体のリズムに近いところにある。とはいえ、その描く身体のリズムは、色彩を受動的に受け入れていて、それに深く浸されていることから発せられる。それに対し、「モデルと同じポー ズをとってみる」という動きは、まず自らの能動性によって、対象のリズムと同化し、それを取り込もう(感じよう)とする動きである。

 つまり、受動から能動へと至ろうとする方向(目を閉じる)と、能動から受動へとろうとする方向(同じポーズをとる)との違いがあるように思える。そして、前者は主に色彩に関係し、後者は主に線描に関係するように思われる。もちろんこの二つの方向は、互いに矛盾するだけではなく、互いにズレをもちつつも複雑に絡み合う。だからこそ、マティスの複雑な画面が、散漫なものへとバラバラにくだけてしまうのではなく、矛盾を孕みつつも、魅力的なひとつの作品として成立しうるのだと思う。

色彩は遅れてやってくる

 色彩を捉えるために一度「目を閉じる」ことが有効なのは、色彩によって与えられる感覚が遅れてやってくるということがあるだろう。

 いつも買物に行くスーパーへの途中のT字路の角の家の庭に金柑と夏蜜柑の木が並んで生えていて、冬じゅう鮮やかに黄色い実を垂らしていて、四月にはいってもまだかわらずに実が垂れていた(ぼくは、 夏蜜柑は夏に実がつくのだとばかり思っていて、では、あの冬に実を垂らしている夏蜜柑そっくりのものは何と呼ぶのだろうかと疑問だったが、冬に実がついて、それを夏近くまで塾させて食べるのが夏蜜柑だというのを、最近知った)。

  自分の部屋から買物に行く時、そして、どこかからの帰り道に買い物をして部屋へと向かう時、そのどちらも、ということはほぼ毎日なのだが、この家のある角を曲がり、この小粒で引き締まった感じのする緑の濃い葉に囲まれて垂れ下がる、鮮やかな黄色(大きくて重く垂れる夏蜜柑と、小さくて沢山ついている金柑)を、その都度目にしていたことになる。
(実家にも金柑の木は二、三本あるのだが熟したそばからもいで、甘露煮などにして食べてしまうし、人間が食べなくても、鳥が来て食べてしまうから、一冬を越えてずっと鮮やかに黄色でありつづけることはない。)

 何ヶ月もの間、ほぼ毎日見続けていたこの黄色い色の鮮やかさを、その前を通るたびに意識していたわけではない。むしろ、それを見ていない時にこそ、ふとその家を思い出し、黄色の鮮やかさが湧き上がってきて、その感覚に貫かれることがある。 そしてその時にイメージされている色彩は、必ずしも正確にその金柑や夏蜜柑の色彩と同じではないと思う。その黄色のなかには、黄色い実を包んでいる緑の葉や、その家の黒い塀、そして、その前を通っている時の買い物帰りの気分、そして別の場所、例えば実家の庭で見た夏蜜柑の記憶なども含み込んだ色彩として(さらに、金柑の甘露煮や夏蜜柑の味まで含んだ色彩として)感覚に浮上してくる。 その黄色は、金柑の黄色であることを超えて、その情景全体にまで広がり、その全体を表現するくらいの含みをもつことがある。

 絵を描く時、目の前に実際に物があることはとても重要なことだ。目の前にあるリンゴや夏蜜柑が感覚に与えてくれるものは、それがない時に想像するものよりも、常に強く、多くのものを含むだろう。しかし、実際 に見えていることは逆に、些細なことを見過ぎてしまい(あるいは「見える」ことに頼りすぎてしまい)、それがそこにあるという感覚を損ねてしまいがちでもある。

 目を向ければそこに物があるからといって、必ずしもいつも見るべきことが見えるとは限らない。香りが捉えがたく、実際はずっとその匂いが香っているはずなのに、一瞬鼻先をかすめて印象を残した後にすぐ見失われ、それを追いかけようとしても、茫洋としたものとなってしまうように、色彩の感覚もまた、見すぎることによって見失われることもある。色彩の感覚はおそらく、今、実際に見えているものであるのと同じくらいに、記憶のなかに蓄積されたものとの関係としてあり、その両者の複雑な響き合いとしてある。

絵の具そのものが絵を描く人を触発する

 絵画において、色彩を実現するのは絵の具であり、その絵の具を支える支持体(キャンバス)である。絵を描く時に、モチーフの色彩に触発されて絵の具の色がつくられるだけではなく、自分で混ぜ合わせた絵の具の色によって感覚が触発されることもある。モチーフとしての金柑が物質であるのと同様に、黄色の絵の具も物質である。 そして、絵を描く時、モチーフを見るのと同じくらい、(例えばパレットの上の)絵の具を見る。だとすれば、絵を描く人のなかで両者は混じり合い、絵の具はたんに色彩を実現させるだけの媒体(手段)ではなくなり、それ自体がモチーフと同等の重さをもつようになる。モチーフが絵を描く人に与える感覚が絵の具に影響を及ぼすだけでなく、絵の具の色彩そのものが絵を描く人に与える感覚も、モチーフの見え方に影響を及ぼす。

 この時、モチーフに依存しすぎる絵画は、絵画としての強さを充分に得られず、しかし、(絵を描きつつ絵の具に触発されるような)絵画としての自己触発のみへと走る絵画は、世界との繋がりや響き合いが希薄になり、浅く狭いものとなるだろう。この両者が結びつかなくてはうまくいかない。そしてこの相互触発が起こるのは、絵を描く人の身体の奥深くであるしかないだろう。

身体の動きの変化が坂道を表現する

 坂道を昇ったり下ったりする時に感じていることを、実際に昇ったり下ったりしながら捉えなおそうとすること。それは、身体の隅々までの細かい動きを意識するということではなくて、そういうことはなるべく意識しないで身体に勝手にやらせておいて、その場所を身体が移動する時に身体に浮上してくる「気分」のようなものを、出来るだけ丸ごと一塊としてえて憶えておいて、それをそのまま対象化したいということなのだ。例えて言えば、ドローイングによって捉えようとしている のは、そのような事柄なのだと思う。

 目から入った色彩が、身体の深い場所で視覚以外の様々な記憶と混じり合い、その結果、実際に見えている色彩とはことなる(様々に不純なものを含んだ)色彩の感覚へと変質する。そのために、いったん目を閉じること。

 それに比べ、ドローイングでは、目によって感覚を受け取るよりもまず、体を動かすことから入る。目は何歩も遅れて、その結果を確認するにとどまる。身体の動きによって対象と重なり、対象と関わり、そしてその動くことそれ自体が、身体に蓄積された様々な別の記憶をも触発し、浮上させ、その感触が動きそのものに混じり合う。

 しかしここで身体を動かすことも、必ずしも能動的なことだとは言えないかもしれない。ドローイングにおて筆を動かすことは例えば、歩いていて平坦な道から坂道にさしかかるとき、意識するよりはやく自然に身体の重心の位置を変化させ るというような「動きとその変化」のようなことで、つまりその動き自体、坂道という環境によって触発されたものであり、坂道という感覚を受け取ったということでもある。それはおそらく、身体の「動き」という場所で身体の深さと、(坂道というあり様をしている)世界の深さが、一瞬響き合い、触れ合ったということだろう。このような時、身体の動きに よって、坂道という世界のあり様が「表現された」と言ってもいいと思う。だから何かを表現するということは、何かを受容するということと、決して別のことではないのだと思う。

初出 「風の旅人」 2006年6月 vol.20


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