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〔劇評〕パンとパン屑(全体を想定しない全体)について / 『うららかとルポルタージュ』(Dr. Holiday Laboratory)

古谷利裕

*以下は、2021年11月24日~28日に、東京のBUoYで行われた、Dr. Holiday Laboratory旗揚げ公演「うららかとルポルタージュ」のレビューです。

初出「うららかとルポルタージュ」記録集


  はじまってすぐ、この上演が、たかだか一度きり上演に立ち会う一観客に全体像を把握できるはずないだろうという姿勢でつくられているとわかったので、「重要なところを見逃してはならない」「狙いを正確に読みとらなければならない」というような緊張が生じず、一つ一つの要素をリラックスして観られた。そして、けっこう笑った。

 作品のありようとして、吉本隆明が「喩としての聖書--マルコ伝」で語っていたエピソードを思い出した。

 イエスが、ある地方に休息のために訪れた。しかしそこにも、悪魔にとりつかれた娘を治してほしいという母親がやってくる。イエスと母親は比喩を介して会話する。イエスは「子どものパンを取り上げて犬に投げ与えるのはよからず」と言う。ここで「子ども」はイエス自身を指し、自分の休息こそがまず必要で、その休息の時間(パン)をあなたたち(犬)に差し出すのはいいことではない、と言ったのだ。

 それに対して母親は、「然り主よ、食卓の下の小犬も子どもの食べ屑を食らうなり」と応える。つまり、子どもの食事を奪わなくても、テーブルの下にいさせてもらえれば、小犬はこぼれ落ちたパン屑を食べることができる。この応えを聞いたイエスは「汝、この言葉により安んじて行け」と言う。この、なぞなぞのような比喩のやりとりによって母親の信仰への理解の確かさをなぜかイエスは確信する。そして娘は治ったのだ。

 なにが言いたいのか。この上演にとって観客というのは、パン屑を食べる小犬の位置にある。パンを食べるのは、つまりこの上演を十分に深く味わうことができるのは、なんらかの形でこの上演に深くかかわった人たちであり、たかだか一度か二度くらい上演に立ち会うだけの観客が得られるのは、せいぜいそこからこぼれ落ちるパン屑でしかない。だが、というかむしろ「だからこそ」と言うべきだが、そのパン屑が(娘を治療可能であるくらいに)それ自身としてとても面白いのだということがあり得る。パン屑からでも、その向こう側に非常に充実したパンが存在することが十分に感じられる。いやむしろ、パン屑こそが(もしかすると実在しないかもしれない)パンを作り出すのかもしれない。

(本来ならば、あらゆる作品がそうであるのかもしれないが、実際には、多くの作品は、パン屑としてあるものを、あたかも「あなた=観客」のために差し出されたパンであるかのように加工して提出される、ということかもしれない。)

(「本来ならば、あらゆる作品がそうであるのかもしれないが」ということを、ふと思わせるような力が、この上演のありようにはある、ということだと思う。)

 わからないけど面白い、いやむしろ、わからないからこそ面白いのだ、という言い方はとても危険で、簡単に思考停止とレッテル貼りに結びつく。しかしそれでも、そのような言い方に一定の意味があるとすれば、パン屑の向こう側に充実したパンがあることが十分な確かさで感じられるが、そのパン本体について的確に言語化することができないという状態は十分にあり得るからだ。パン屑から想定されるパンの存在が大きく、充実していればいるほど、それはそう簡単にはつかめない。つかみきれないものをつかもうとしている時間に、頭と体がもっとも働いている。

(「面白い」と感じている時点でそれは「わかっている」ということで、「わからないけど」を付け加える必要はない。しかしその「わかり方」の深さや広さはそれぞれということだ。そして、完全に、全体的に「わかっている」ということはあり得ない。)

 そして重要なのは、パン屑の向こう側に想定されるパンは一つではないということ。演出家にとってのパン、劇作家にとってのパン、俳優たち一人一人にとってのパン、音響や美術スタッフにとってのパン等々…、かかわり方やかかわりの深さによって、それらはある程度は重なりながらも、それぞれ異なっているだろう。

 今まで書いたことと矛盾するようだが、それがすでにパン屑でしかない以上、どのパン屑もそれとして一つの全体であって、なるべく多くのパン屑をひろいあつめて比較したり、さらに足りないところ(欠けているピース)を補って、その向こう側にある「全体としてのパン」の図を描き出そうとする(パンを再構成しようとする)必要はない、ということも、この上演にとってとても重要なことではないかと思う。

 パン屑としての広さや密度や深さに違いはあるとしても、そのパン屑のすべてがすでに全体である。

 統合が目指されていない、さまざまな要素が並立的にバラバラにある、観客席の位置によって見えることと見えないことが違ってもかまわない。これらのことは、たんに出来事が同時多発的でバラバラであるということではなく、それらのどの要素もそれ自体として全体であり、複数の要素の重なりによってふいに(偶発的であるかのように)生じては消える都度都度のパースペクティブもまた、どこで生じたどのパースペクティブも、すでにそれ自体で全体である、ということではないかと思う。

 あらゆるパン屑がそれ自体として全体であるということは、どこにも特権的な正しいパン屑はないということで、さらにいえば、特権的なパンもどこにもないのだから、確かにパン屑とパンとでは深さや密度や強度が異なるとはいえ、(それは度合いの差異であって)パン屑に対してパンが必ずしも優位にあるとも言い切れない。

 あらゆるパン屑、あらゆるパンがそれ自体として全体であり、自律的であるとしても、それら多数のパン屑群、パン群たちは、それが『うららかとルポルタージュ』という作品に由来することによって何かしらを共有しているはずであり、それらはゆるやかに連帯し、互いに何かしらを反射し合い交換し合い得るネットワークをつくりだす、のではないか。

 以上を前提に、わたしの受け取ったパン屑について断片的に書く。
(以下にある、「撮影者」「化身」「効果音」「警備員」「作者」は役名)

 たんじゅんに、俳優の動きや発声がそれ自体で面白い。セリフの内容と、発声と、俳優の身体(動き)の流れが、それぞれバラバラに走っていて、それがルーレットのように組み合わせが変わっていくように感じた。そして、ルーレットのように、三つの流れが一致することもある。その感じも、俳優一人一人で違っているようだった。

 「撮影者」は、常識的な意味で演劇的であるぎりぎりの線を保っているようだが、「化身」や「効果音」はそうではないようにみえる。「化身」の動きは、常識的な意味での演劇からは遠いが、シャッフル度合いはそれほど高くないようだ。「効果音」は、常識的な意味での演劇からも遠く、セリフと発声と動きのシャッフル度合いも高くみえる。「警備員」は、ぐったりモード、身体能力の高さを示すモード、セリフと同期して常識的に演じるモードの三つくらいをくっきりわかりやすく行き来している。「作者」は、冒頭の四つん這い以外は、ただ立っている、ただ横たわっていることに徹しているようだ。

 声としては「化身」の声が通奏低音(というか通奏高音)のように印象的に響き(衣装の赤と水色も目印のようにあり)、身体の動きとしては運動量の多い「効果音」を目で追うことが多かった。

 空間としては、真ん中にある太い柱と、舞台を三つに区切る線の存在が特徴的だ。

 「警備員」が、最も強く柱の重力に囚われていて、「効果音」は、まるで衛星のように柱の重力圏をぐるぐる回っている。「化身」と「作者」は、柱の重力よりも区切り線に強く囚われていて、「化身」は自分が存在するゾーンから(二度の例外を除いて)出ることはなく、「作者」は「化身」のいるゾーンには入らない(反復場面で、境界線上にある植物の下の位置を交換するが)。これは、「化身」が文字通り「作者」の化身(ゲーム内アバター)であることに由来するのだろう。「撮影者」は柱にも区切り線にもあまり影響を受けない。

 冒頭に貞子のような四つん這いで登場する「作者」に対して、「警備員」は身体の柔軟性を示すようにしばしば(四つん這いの反転形である)ブリッヂの姿勢をとる。衣装の黒と白も対比的だ。「効果音」は、相撲の立ちあいのように、野球の内野手の守備姿勢のように、ほとんどの場面で腰を低く落とした姿勢で、運動量もそのバリエーションも多い。対して「警備員」は、多くの時間、柱の重力に囚われて不活性だが、(「化身」の境界越えにより?)一旦解き放たれると、爆発的に動き始め、語り始める。だが、今度は「作者」によって妨害される。全ての人物で、重心を後ろに傾けて反り返る姿勢が目立ち、また、背中に回された掌が強い表現性をもつ。

 観客席とは別の位置に置かれた(と想定される)カメラからの映像が流れる場面がある。演劇ではVRと異なり観客間の視点の交換は出来ないが、ここでは存在しない者の視点が現われる(本作はVRワールドが舞台となっている)視点が違うだけでなく、リアルタイムの俳優の動きとズレたり、コマ跳びが起こったりする。ここで、時空のエアポケットにズドンと落ちたような衝撃があった。「化身」が境界を越える場面(時空の二重化)と、反復の二度目の場面(時空の三重化)で、複数の時間の「落差」こそが「現在」なのではないかという感覚が生じた。

 戯曲も極めて多層的、複線的な言説の並置によって組み上げられており、全体を把握するのは上演の全体の把握と同様に困難だ(ただし、何度でも参照可能なテキストの場合「全体の把握」という欲望は---良くも悪くも---放棄されず生き続ける)。そこには直接的に政治的な言説も多く含まれる。その性質上、上演では直接性はある程度抑制されるが、「化身」が境界線を越えて進む時に轟くホイッスル音によって、例外的に「生々しい(闘争の)現場感」が惹起された。
(了)


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