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泣く女、透ける男/中上健次「蝸牛」をめぐって

古谷利裕

0.
 短編集『十九歳の地図』(1974年)が中上健次という作家にとって重要なのは、そこにはしる断層が明確に見て取れるからだ。その断層は、最初の二篇(「一番はじめの出来事」「十九歳の地図」)と後の二篇(「蝸牛」「補陀落」)との間にはしっている。そしてこの断層は、中上健次という作家の生成を物語っているように思われる。つまり、「十九歳の地図」から「蝸牛」への飛躍によって、後に『枯木灘』や『千年の愉楽』を書くことになる小説家中上健次が誕生した。そして、『十九歳の地図』の後半の二つの短編「蝸牛」と「補陀落」には、中上健次という大きな作家がそれ以降に実現してゆく爆発的な展開の萌芽が、既に含まれているように思われる。本稿は、〈一番はじめの中上健次〉とも言える「蝸牛」という短編を読んでゆくことによって、この大きな作家の「書くこと」を駆動させつづけた力に、僅かにでも触れたいという動機によって書かれる。
 断層があるとは言っても、当然、連続性も存在する。「蝸牛」「補陀落」への飛躍的展開を起動させた何ものかが、「十九歳の地図」には書き込まれているはずだ。この短編を凡庸な青春小説から隔てているものは、《かさぶただらけのマリアさま》という存在であろう。だがここで重要なのは、すこしばかり大げさ過ぎるその存在の形態であるよりも、語られ方の方にある。彼女の存在は、口から出任せばかりを言い、同僚から《先天的なうそつき》で、《自分でだってなにをやってきたかわからない》のではないかと言われる紺野という男の口を通して語られる。つまり、実在するともしないとも言えない女である。《死ねないのよお》《なんども死んだあけど、だけど生きてるのお》とうめくように言うこの女は、信用ならない男のする胡散臭い話しとして小説内部にあらわれる。
 主人公は、ラストに近い場面で、紺野から聞いたこの女の番号へと電話をかけるが、電話に出る女は紺野の話とはまったくの別人としか思えない女だ。それでもかまわず、電話の向こうの反応とは無関係に、一方的に相手を《かさぶただらけのマリアさま》に見立てて言葉を浴びせる主人公は、《不意に受話器のむこう側で風がふきはじめたような音がひび》くのを聞き、そこでようやく紺野の話通りの、《触るとぽろぽろこぼれてしまいそうなこまかい硝子細工でできたような声》へと変化した、《死にたいのよお》という言葉を聞く。つまり、主人公が聞くこの泣く女の声は、現実とも幻覚とも言えず、本当とも嘘とも言えない泣き声なのだ。
 ここで主人公は、軽蔑し嫌悪すらしている信用ならない男、紺野の語る話の内部に巻き込まれていると言えるのだ。そして、この架空の「泣く女」を必要としているのは実は紺野よりも主人公の方なのだ。この、信用ならない語り手の「語り」にのみその存在の根拠をもつ《かさぶただらけのマリアさま》のあり様こそが、「十九歳の地図」から「蝸牛」への飛躍を準備しているように思われる。

1.
 「十九歳の地図」における主人公と紺野(+かさぶただらけのマリアさま)との関係は、「蝸牛」では主人公(ぼく=ひろし)と光子の関係として受け継がれる。どちらの小説でも、語り手であるはずの一人称の話者《ぼく》は、語る者であるよりは語りを「聞かされる者」であり、語りを受けとめる者(聞き手)として造形されている。
 「十九歳の地図」の《ぼく》は、青臭い自意識と感情とにまみれそれを繰り返し吐露するが、彼に可能な能動的な行為はせいぜい愚にもつかない「いたずら電話」だけであり、このような能動的行動の不能こそが《ぼく》の感情をさらにくすぶらせる。そして、軽蔑の対象でしかない同僚、紺野のほら話に《ぼく》こそが依存し、それを必要としていた。しかし《ぼく》はそこに無自覚だ。
 それに対し、「蝸牛」の主人公である《ぼく》は、自らの無能さに自覚的であり、年上の女性、光子のおかげで《なまくらに呆けて》生活することが出来るのだということを知っている。「蝸牛」においては、(秋幸に代表されるような)中上的な男性主人公が本質的に能動的ではなく受動的であることが、はっきり自覚され、発見されている。《ぼく》がヒモであるという設定は、登場人物が自らの受動性(能動性の放棄)を自覚していることの表明であろう。すでに《ぼく》は苛立つだけの子供ではなく、この「ヒモ」というあり様は《世の中を渡り歩いてきて手に入れた才覚のたまもの》であり、《ぼく》にとってそれは《自分が実にいい場所を手にいれている》と感じられるような位置なのだ。《ぼくは光子に関係をつけた。それはぼくのたくらんでいたような具合になった》。まず主人公のこの自覚に、前作からの大きな飛躍がある。
 《ぼく》はただ、経済的な面で光子に依存しているだけではない。自らの像(キャラクター)のあり様すらも光子の好みによって決定されることを受け入れている。

過去のことは忘れた、憶えていないと言うたびに、光子は「船にのってたか、刑務所にはいってたか、どちらかやろ」と言い、ぼくを光子の頭のなかで想像しうるかぎりの荒くれ男、そばによると獣の雄のにおいと暴力のにおいが鼻につく男にしたてあげたくてしょうがない感じだった。だからぼくはつとめてそのような男になろうと思った。
(…)ぼくは自分の姿格好がどうみたって、駅前にたむろしているチンピラと変わらないのに気づいた。裾幅の広い腰の周囲だけがぴったりしたズボン、わに革を模したバンド、それに短かく刈った髪、それは光子の好みだった。

 「蝸牛」の《ぼく》は、ただ能動性を放棄しているだけでなく、存在としての特色の感じられない、無色で透明な男なのだ。《ぼく》は、光子の好みを自身の無色な身体に反映させることによってはじめて、小説のなかでの自らの形象を得る。《ぼく》は本来、《ただふっと影のようにあるだけ》の男なのだ。
 確かに来歴がまったく語られないわけではないが、しかしそれは説得力に欠け、真実味が薄く、実に薄っぺらなものだ。《ぼく》は、この小説の舞台であるS市の出身であるようなのだが、登場人物たちのなかで唯一《東京言葉》を話す。小説内で語られる来歴をみる限りでは、《ぼく》はS市を出た後も主に関西圏で生活していたらしいにもかかわらず、何故か、そうなのだ。そしてその理由は、《ぼく》が読者に向かって語る来歴がそもそも嘘であるかもしれず、また、《光子はぼくがこの市で生まれ育ったことすら疑っている》ことを受動的に反映しているのかもしれない。それくらいに、《ぼく》の存在はあやふやで透明であり、光子の欲望に依存している。
 そもそもこの《ぼく》という存在そのものが、光子と出会う以前はどこにも存在しなかったのではないかとすら感じられる。《ぼく》は《二十六まで夢のように過ごしてしまった》とも書かれている。「蝸牛」という小説は、「光子によって語られる《ぼく》」が語る小説であるのだ。
 存在の根本から受動的で透明であるかのような《ぼく》の能動性の欠如は、光子との関係にだけみられるものではない。例えば、光子の息子の輝明が、《一見して白痴とわかるぷよぷよした感じを与える顔の女の子》を縄で縛って吹き矢の的にし、その額に矢を当ててしまう場面がある。そこで、その子の母親が、娘の《額から流れる血を自分の口でぬぐい、「つらいよ、おおつらいよ、傷ができた」と呻い》ているのを見る《ぼく》は、《この子の額を吹き矢で射ったのが横に立っている輝明ではなく、自分自身である気が》する。
 しかし実際には、《その時、電柱の前に立った白痴の子をぼくはただ見ていた》だけなのだ。(能動的に)自分で矢を射った輝明は、その後、自らの行為のむくいをうけるかのように自身の左目を笹の茎で突いてしまうのだが、そこでもただ《見ていた》だけで簡単に自分がやった《気がし》てしまう《ぼく》には、その時も輝明の傍らにいるだけで、むくいを傷として自身の身体で受けとめることすらできない。《ぼく》の受動性とは、ただ表面的な像を反映するというだけで、自身の奥深くまでとどく「傷」を自らの身に代替的に受け入れるという受動性ではない。
 この場面の冒頭で《ぼく》は、この白痴の女の子の《背後からじっと見つめているその眼》を、《自分が見透かされているかと思っ》て、気持ちが悪いと感じている。光子の期待と欲望に沿って自らを荒くれ男として仕立てようとするように、他人から投影される像や欲望を反映することではじめて自身の輪郭を成立させることの出来る《ぼく》にとっては、この白痴の子の、どのような期待も欲望も投げかけてこない白い眼差しに見られることは、まさに《見透かされ》るように、自身を透明にし、存在を消されてしまうような恐怖をもたらすものとしてあるのだ。だからこそ《ぼく》は、輝明がそうしたように、矢を射ってその眼を潰してしまいたいと感じている。
 《ぼく》の像を溶かし、物語を漂白する、白痴の女の子による《見透か》す眼差しは、《まあるいすべすべした石》という「眼差さない眼球」のようなイメージを媒介として、すべすべした石のある《海》というイメージへと連結され、拡大してゆく。海は、外へ向けて何も投射しない、自分自身で充足した圧倒的に大きな獣のイメージとしてあり、他人のものでしかないかりそめの物語の反映によって自分を支えるしかない《ぼく》の姿形を消し去ってしまう脅威的な存在として身近にある。だから《ぼく》はそれを、《不吉》で《不快》と感じる。

男と女の汗や体液のにおいでいっぱいになった部屋の外に、よけいなものをすべてそぎおとした単調なものがあるというそのことが、ぼくには不思議だった。海。光。波。石。それらは充足してそこにある。光をあびて青くふくらむ海をみるたびに、ぼくは、圧倒的に大きな一頭の巨大な獣がそこにいて、鱗でおおわれた腹が上下して息づいていると感じ、この世にこれほど醜くて、不吉なものがあるだろうかと不快になるのだった。

 《ぼく》は能動的な主体性をもたない、徹底して受動的な存在であり、そのことに自覚的であるはずだった。そのような《ぼく》にとって、過剰に物語を紡ぎだし、何度も繰り返して涙を流し、それによって《ぼく》に形を与えてくれる光子というパートナーは、不可欠であり、願ってもいない良い相手なのだ。
 しかし、《自分が実にいい場所を手にいれている》と感じさせる「場所」へのこのフィット感は惰性に繋がり、次第に《いつでもいやになればこの女から逃げだすこともできるし、心変わりがして、光子に自分の子供を生ませてちゃんと所帯をもち、この市の人間になることもできる》という、自らの受動性を忘れたかのような、あたかも能動的な行為が可能であるかのような思い違いを抱かせることにもなる。《ぼく》が、光子の傍らという《いい場所》から追い出されるのは、この思い違いによってであって、光子の子である輝明の怪我はそのきっかけにすぎない。

2.
では、無色透明な《ぼく》に色彩と輪郭を与え、その存在を可能にする光子とはどのような存在であるのだろうか。光子はまず、嘘をつく女としてあらわれる。

光子の本当の歳は三十二だった。いやそれだって嘘かもしれない。最初ぼくが聞いたとき、光子はある事情で婚期がおくれ、しようがないからこんなところで働いていると言った。アパートに行き、輝明が寝ていると、今度は、姉の子供だと言った。しかしそんなことはどうでもよかった。

 本当は、輝明は死別した夫との間に出来た光子の子供である。しかし《それだって嘘かもしれない》のだ。だから《ぼく》は、《輝明の父親と縁つづき》であるらしい《奇形の指をもつ男》や、《びっくりするほど輝明に似てい》る《光子の兄》を、実は輝明の本当の父親ではないかと疑う。
 とはいえ、この疑いは《ぼく》にとって決して深刻なものではなく、《そんなことはどうでもいい》という程度のものだ。嘘をつく女である光子は、本当とも嘘とも分からない物語を繰り返し語る者でもある。そして、よそ者であり、土地の事情や血縁関係に詳しくない《ぼく》は、光子の来歴、光子のまわりにいる様々な人物たちのこと、この土地の因縁を、光子の語る《嘘かもしれない》物語を通してしか知ることができない。《ぼく》にとってそれは、自分自身の像がそうであるのと同じくらいに、架空の物語にすぎない。《光子をぼくはわかろうとしないで、ヒモとその女、女とその情夫という世の中にありきたりのつながりとたかをくくっていた》。《この街になんのつながりも根拠もつくっていないとぼくは思った》。
 嘘をつき、物語を語る女である光子は、必然的に演じる女でもある。《光子はわけのわからない怒りをだれかれなしにぶちまけることがあ》るとされるのだが、しかしその《怒り》は《ぼく》という観客がいることによって、その視線が意識されることによってはじめて形を得る。だから、《ぼく》と光子の関係は相補的であり、無色透明な《ぼく》が光子によって輪郭を得るのと同様、《ぼく》という観客(視線)を得ることで、光子の不定形の感情は、表現としての上演形態(語りや怒り)を得ることができるのだ。
 光子はある日、《怒りの発作につきうごかされ》て、輝明をつれて《牛のひずめの手をもつ、輝明の父親と縁つづきだ》という男のもとへおしかける。光子は男に《子供に親の悪口吹き込まんと》《文句あるんやったら、堂々と自分で言うてこい》と怒りをぶつける。しかしこの場面全体が、《出る幕はない》とただ見守っている《ぼく》に向けて演じられている芝居のようである。
 《ぼく》は、無理矢理連れられてきた輝明のうかべる《やわらかい笑い》をみて、《おまえの感じている恥ずかしさがなんとなくわかる》と思い、男がみせる奇形の手を見て、《自慢にしているようで》《わざとらしく見えた》と思う。つまり《ぼく》には、これが演じられた芝居であり、自分が観客の位置に置かれていることが自覚されている。光子は、部外者である《ぼく》の眼があるからこそ、それに見せつけるようにして《怒りの発作》を爆発させることができる。しかし本当は、《ぼく》の視線はたんに媒介的なものに過ぎず、この劇はもっと別のものに向けて演じられているとも言えるのだ。

…「いきなり、おまえも、なに言うんな……、輝明も泣いとるし、人もきいとるのに……」
「人? どこに人がいるんなよ、これは、うちの彼氏や」
「世間の人がきき耳たてとるが」

 光子のこの《怒りの発作》という劇は、実は《きき耳をたて》ているであろう《世間》にこそ向けられている。《ぼく》はここではたんに、その劇の成立のきっかけをつくる者でしかなく、《ぼく》の視線の先(あるいは後ろ)にあることが想定されている《世間》の耳こそが、光子のこの劇の、そして光子の感情の真の届け先であろう。そしてそれは同時に、光子の、嘘をつき、物語り、怒りの発作を起こし、繰り返し泣く、その感情を生み出している根底にあるものが、ここで《世間》と呼ばれている、この土地にある関係や因縁の複雑さであるということをも意味する。
 この《怒りの発作》は、終盤、輝明が眼を笹の茎で突いてしまうことを回避させられなかった《ぼく》に向けたものとして反復される。この怒りはある程度は当然と言えるが、しかしここでも常軌を逸した発展をみせる怒りの発作=三文芝居の上演は、怪我をした当人である輝明が《きょとんとした顔》をしてしまうほどに、わざとらしく大げさでこっけいである。そしてここでもその怒り(怒りにかこつけた啖呵)は、《ぼく》を媒介として、《カーテンのむこう側》でなりゆきをみまもる(土地の者である)看護婦や医者にこそ向けられているかのようなのだ。
 この土地に存在し、この女を縛っている、関係の複雑さこそが、光子の感情の「実質」を支えている(しかし、その関係の複雑さの具体的なあり様は「蝸牛」では充分に描かれているとは言えず、次作「補陀落」以降の展開を待たなくてはならないのだが)。《ぼく》は、光子と性交しながら、その関係の複雑さを《この体にわけいった男、いやこの体そのもののなりたちやとりまく環境がみえないものの正体だ》という形で感じている。
 だから、《ぼく》と光子の関係は相補的であっても、対称的ではない。光子がいるから《ぼく》という像が存在するのだとは言えても、《ぼく》がいるから光子いるとは言えない。光子は、この土地の固着した関係そのものの実体化として、その結節点として、確実に重さと厚みをもって存在している。だからあくまで二人の関係は、光子が主であり《ぼく》は従である。

光子は上半身裸になっているぼくに抱きつき、輝明を寝かしつけるように眠るまで背中をたたいてくれと言った。背中をとん、とんとたたいてやっていると、不意に光子はぼくの胸に顔をつけ、「ああ、ああ」と声を出して泣きはじめた。それは光子の体にたまっていた悲しみが、背中をたたくゆるやかなリズムにひきだされてでたようだった。ぼくの胸に顔をつけ、涙を流して泣くことがたまらなく心地いいように、泣いていた。「ずっと、ずうっと前から、許してもらいたかったん」と泣きじゃくった。「いっつもつらいんや、いっつも、いつも」光子は顔をあげ、「わかる、わかってくれる? 」とぼくにきいた。

 《いっつもつらいんや》と言って泣くことが、《たまらなく心地いい》ことであること。光子を取り囲む複雑な関係は、光子に繰り返し泣くことを強いるような感情を生じさせる。光子はそのような感情として存在する。しかし同時に、泣くことは、関係によって強いられる感情を甘美なものへと変容させる技法でもある。光子に繰り返し、泣き、演じ、語ることを強いるのは、関係の複雑さ(いっつもつらいんや)であるが、しかし、泣き、演じ、語ることを繰り返すことそれ自体は、光子にとって、甘美で心地いい行為でもある。
 そして光子が、泣き、演じ、語ることを可能にするのは、《ぼく》という透明な媒介的存在である。光子は《ぼく》に向かって、《ぼく》を通して、泣き、演じ、語る。しかしその感情の真の届け先は決して《ぼく》ではなく、光子にとって《ぼく》は、他の誰かでも代替可能な「泣くための道具」でしかない。
 光子は突然泣き出す。《国道沿いの深夜スナック》から《二人で抱き合うようにして》歩く帰り道に、《光子は不意に立ちどまり、顔を両手あて、泣きはじめ》るのだ。

光子は、ただ、ああああと声をあげて泣いた。それがやりきれなく、子供もいる三十女がいつまで甘えて泣くんだと言い、顔をひとつふたつはりとばしてやろうかと思ったが、面倒くさくなってやめた。実際そんなことをやれる身分ではない。ぼくは、泣くということに熱中し陶然としている女に飯を食わせ養ってもらっているのだった。
「どうしたんや、どうしたんや、ああ、泣いたりしたらあかん」ぼくは大人ぶった口調で言い、光子の背中をさすった。
「つらいんよ、わたしは、つらいんよ」光子はそう言い、前のめりに倒れるようにしゃがみこんだ。「もう、どうしてええか……」

 しかし、それは《ぼく》にとっても望むところであるはずだ。《ぼく》に必要なのは、光子ではなく、光子が与えてくれる場所であり、場所を得ることで、光子の欲望の反映としての自身の存在の輪郭を得ることだった。光子の語る《話半分》で《みんな半分嘘》であるような物語は、《ぼく》の存在にかりそめの像を与えてくれるという以上の意味をもたず、どこまでも他人事の物語に過ぎないはずだった。

3.
 小説の語り手は《ぼく》であっても、語る主体はあくまで光子であり、その語りを生成させる根拠もまた、光子の側(土地やその血縁など複雑な関係性)にある。《ぼく》は光子による語りを聞き、そのパフォーマンスの受け手(観客)であることによってそれを引き出す媒介であり、光子の語りの受容者として、存在する位置をどうにか得ているにすぎない。
 だが、光子の語る物語の実質は、ただ彼女に「語らせる力」にのみ宿っていて、彼女の語る「物語の内容」には存在しない。実質をもつのは、光子が繰り返し物語を語り、繰り返し泣くというその事実であって、そこで語られる話自体はいつも《みんな半分嘘》であって、信用ならないものでしかない。《ぼく》はそのことをよく知っている。だからこそ《ぼく》もまた《光子のためになにひとつしてやろうと思っていないのに、しゃあしゃあと、なんとかしたると口に出す自分のでたらめさがおかしかった》と語るような距離を保っている。
 とはいえ、《ぼく》という存在はそれほど単純ではなく、揺れを含んでいる。《ぼく》は、基本的には無色透明な存在であるが、実はその存在の芯かすかな香りのようなものは有している。そのかすかな香りは、母子関係における「恥ずかしさ」として匂わされる。
 前述した、光子が奇形の手をもつ男のところへ強引に輝明をつれて行った場面で、「輝明が《ぼく》を見る眼差し」を見る《ぼく》は、その眼差しから《恥ずかしげ》であるような感情を見いだし、《おまえの感じている恥ずかしさがなんとなくわかる》と応じる笑みを返す。ここで《ぼく》は、母子の関係の密着を他人に対して恥ずかしいと思う感覚を、輝明に投影することによって表明しているのだ。このようにして母に依存するしかないことが《恥ずかし》い、という感覚を、だ。
 このときの《ぼく》は、光子からの語りや感情の受け手として規定される受動的な《ぼく》ではなく、輝明のなかに自身の位置と感情を積極的に見出しているようなのだ。基本的に無色で空っぽな《ぼく》は、ただ恥ずかしさという感情をもつ時にのみ、そのかすかな存在の実質を露わにする。
 この構図は、輝明が白痴の女の子の額を吹き矢で射ってしまった場面で反復される。母親が女の子を抱き、その血の流れる額を《口でつつみ、爪のひらべったい指で涙をぬぐ》うのを見る輝明は、《他人には正視できない恥ずかしい秘め事をいま眼にしているというように、つっ立って》いる。ここでは、前の場面では「光子+輝明」を見ている《ぼく》という構図だったものが、〈「母+白痴の子」を見ている輝明〉を見ている《ぼく》という構図に移行している。つまり、奇形の手の男の場面で《ぼく》が占めていた観客としての位置を、白痴の子の場面では輝明が占めていて、それをさらに外側から《ぼく》が見ている。ここでもまた、《ぼく》は観客と化した輝明のなかに積極的に自身の存在を投影している。というか、《ぼく》と輝明とが重ねられている。
 (とはいえ、白痴の子は、「恥ずかしげな眼差し」を、共感を求めて輝明-観客に送ったりしはせずに、海のように充足しており、輝明=《ぼく》は観客の場に取り残される。)
 だがここでも、白痴の子の額を射るのは輝明であって《ぼく》ではないので、《ぼく》は、自身の存在の積極的な投影はしても、能動的な行為は行わない。
 つまり、一人称の話者である《ぼく》は、「蝸牛」のなかに二つの異なる位置をもつことになる。一つは光子が投影するものを受けとめるスクリーンとしての位置、もう一つは、輝明に向かって投影され、輝明によって結像される「恥ずかしさ」という感情をもつ主体という位置。よそから借りてきた仮のイメージとしての荒くれ者であろうとする《ぼく》と、母子関係の密着のなかに安らうと同時に、外からの視線を恥ずかしいと感じる無力な子としての《ぼく》。どちらの《ぼく》も能動性を欠いた、女=母に対して受動的な存在である点では一致している。
 しかし、基本的によそ者であり、光子が強いられている血や土地の関係の外側にいて、ただ観客としてそれを見るしかない《ぼく》は、輝明という位置を借りることで、辛うじてその関係の内部に、ほんのわずかだけ(輝明への共感によって)入り込むことが可能になるのだ(要するに、《ぼく》は光子の「息子」という位置においてのみ、関係の内に入り込む)。作中の《ぼく》は、この二つの異なる位置の間を揺れ動いており、この揺れこそが、小説の記述の推進力となっているように感じられる。
 《ぼく》の、このような存在の様態の違いは、作中で、さらさらと流れるものと、粘ねばしたもの、ヌルヌルしたものとの、触覚的な対立としても形象化されている。《ぼく》や輝明が、光子との距離を確保し、関係がかりそめの物語として滑らかに進行する時、きめの細かい光が射し、風が吹き抜けて、草や木の葉を揺らすだろう。しかし、《ぼく》が輝明の母子関係への投影を通じて土地の関係-因縁に絡め取られそうになる場面では、光や風が粘つき、粘りけのある血が流れる。

4.
 《ぼく》にとって、光子と輝明の母子関係や、光子をめぐる複雑な土地の関係は他人事であり、自分はよそ者であって、《かかわりあいのないぼくのでる幕はない》と自覚されている。ただ、輝明という存在へ「恥ずかしさ」が投影される時のみ、他人事以上の何かがそこに生起する。とはいえ、恥ずかしさという感情が《ぼく》にとってかりそめの物語を越えた生々しいものであり、そこに母子という絶対的な関係が刻印されているとしても、それは、何度も発生するが、その場限りで消えてしまうものなので発展性はない。
 だから、何度もたちあがるこの生々しい感情をその都度噛み潰してしまうことが出来れば、《ぼく》は、光子とのかりそめのイメージを媒介とした関係をつづけられたかもしれない。しかし、そうはならなかった。「蝸牛」という小説は、《ぼく》が、光子の語る信用ならない物語の内部に、距離を維持することが出来ず、徐々に巻き込まれてゆくという話であろう。
 光子の語る物語は信用出来ないし、上演される劇はわざとらしい。それを知っていながらも、なぜ部外者の《ぼく》がその物語に巻き込まれてしまうのか。以下は、《ぼく》と光子が性交している描写。

左手で光子の脚をおさえつける。脚はそれだけで意志もち人に慣れようとしない動物だった。完全にぼくは体の奥まで入っている。不思議な感じだった。巨岩を御神体に祭ったこの市の山の頂上に建てられた神社の石段を、ひとつひとつ苦しい息を吐きながら登りつめるように、眼にみえないものにむかってつきすすむ。この体にわけいった男、いやこの体そのもののなりたちやとりまく環境がみえないものの正体だ。親がいて兄弟がいて子供がいる。それによってなりたっているこの体。青い血管のうきでた乳房をつかみ、焦茶色に変わった乳房を親指でおさえ、額にくっついた汗のつぶと自分のかすかなわきがのにおいを感じ、奥の奥、中心までいき、この女のためになにかやってやりたいと思い、髪をくしゃくしゃにしてぼくをとらえたままの光子の乳首を噛んだ。波の音がしていた。

 光子との性交の途中で《ぼく》は、(引用部分の直前で)《輝明の父親との生活によって体にしみこんだ癖》を感じる。そして、《この体にわけいった男、いやこの体そのもののなりたちやとりまく環境がみえないものの正体だ》と、光子に「語らせるもの」の実質を感じる。ここで《ぼく》が交わっているのは、光子の体そのものというよりも、その《体にしみこんだ》何かであり、ここで光子とは、この土地に堆積した複雑な諸関係の結節点としてあらわれる体のことなのだ。語りはそこからわき上がってくる。
 《ぼく》は光子の体から、彼女の語る物語ではなく、物語らせるその力の根源である「諸関係」を感じ取ってしまう。しかし、光子の体(物語る力)が様々な関係の結節点としてのみそこにある以上、その力の《奥の奥》や《中心》などそもそも存在しない。力は関係から来るのであり、中心を追いかけても、その実質は関係へと解体されてしまうだろう。この思い違いが、この後の《ぼく》に大きな誤謬を生じさせることになろう。
 複雑に絡み合う関係の結節点からは、複数の相容れない(半分嘘である)物語が発生する。それら物語の間に生じるズレや落差や矛盾の吸収される場として、フィクションとしての一つの主体である光子がたちあらわれる。光子が生きる(発生する)場所は、関係と関係の間であり、物語と別の物語との断層であろう。だから光子は「一つの空隙」としてある。「空隙」というのは、なにもないということではなく、関係の絡まり合いがそこへと集約され、矛盾や摩擦、軋轢が、そこからたちあがり、(「一」である)そこへと吸収される穴のような場所のことだ。《脚はそれだけで意志もち人に慣れようとしない動物だった》と書かれるように、本来、光子の体は「一」へは還元出来ない無数ざわめき立った諸矛盾がその「体」へ向かって吸い込まれてゆく、そのような受苦的な場としてあるだろう。
 重複となるが、前に引用した部分を、改めてもう一度引用したい。

光子は上半身裸になっているぼくに抱きつき、輝明を寝かしつけるように眠るまで背中をたたいてくれと言った。背中をとん、とんとたたいてやっていると、不意に光子は体にたまっていた悲しみが、背中をたたくゆるやかなリズムにひきだされてでたようだった。ぼくの胸に顔をつけ、涙を流して泣くことがたまらなく心地いいように、泣いていた。「ずっと、ずっと前から、許してもらいたかったん」と泣きじゃくった。「いっつもつらいんや、いっつも、いつも」光子は顔をあげ、「わかる、わかってくれる?」とぼくにきいた。

 光子は、《背中をとん、とんとたたいてやる》そのリズムにひきだされて涙を流す。ここで泣くという行為には、このリズム以外には何の根拠もない。《許してもらいたかったん》《いっつもつらいんや》という言葉にも、具体的な行き先(意味)はない。誰に対して何を許してほしいのか、どのような状態のことを指してつらいと言うのか、それを口にしている光子自身にもわかっていない(関係は複雑過ぎて整理できない)。
 それは《とん、とん》というリズムと同期して流出してしまったある純粋な感情であり、ただ泣くこと、意味不明な言葉を吐くこと以外に表現の形態をもたない。ここには物語はなく、ただ、物語の発生源としての、何かしらの力が動いている場所があるだけだ。《ぼく》が動かされるのは、この力に触れることによってなのだ。
 だからこそ、《わかる、わかってくれる?》という言葉に《ぼく》が、《わかるよ、わかってるよ》と答えると、光子は態度を変え、《突然ぼくの胸を手でつきはなし、「嘘つけ」とどなり、もみがらのはいった枕でぼくの頭をなぐりつけ》たりするのだ。光子にとって重要なのが、語ることそのもの、泣くことそのものであって、それに対して《ぼく》が、物語や言葉や意味の次元でそれに応えることではないからだ。そもそも、物語の内容など半分嘘っぱちなのだから、そのどうでもいい内容と同次元で返される回答に意味があるはずがない。
 光子にとって《ぼく》が必要なのは徹底して受動的な存在だからであり、《ぼく》には《この女のために》能動的に《やってや》れる何かなどどこにもないのだ。背中をとん、とんとたたくこと以外は。
 しかし、光子の物語を繰り返し聞き、その三文芝居の上演に繰り返し付き合うことで、《ぼく》はその物語の罠に知らず知らずにはまってゆく。《ぼく》は光子の泣く力に感化され、物語を生む力そのものという次元と、その物語の内容の次元とを混同する。つまり、物語が《ぼく》こそを必要としているかのように錯覚し、それによって物語の内部に組み込まれていってしまうのだ。
 自らの存在の受動性やイメージを媒介とする距離を忘れ、《ぼく》が決定的に道を踏み外してしまう瞬間は、《ぼく》とこの《S市》という土地との距離をあらわす《東京言葉》を手放してしまうという出来事として表現されている。足の悪い兄がどれだけ酷い人間であり、自分や弟がどれだけ酷いことをされたかについて例のごとく語る光子に思わず、《「悪り男やねえ」ぼくはこの市の方言を使って相槌をうっ》てしまう。《この市の方言》で相槌がうたれてしまったことが、《ぼく》にこの土地との適切な距離を忘れさせる。

光が強かった。魚売りが、塩っぽい声で、「さかなあ、いらんかのうし」と声をかけてリヤカーを押していた。それは不思議な光景でもなんでもないのに、浜の家へつづく道を歩きながら、ぼくははじめて自分がこの市に戻ってきたのだと思い知らされる気がした。

 これは勿論思い違いであり、《ぼく》は、来歴の怪しい《東京言葉》を喋る男でしかなく、《この街になんのつながりも根拠もつくっていない》部外者でしかないはずだった。そうであるにもかかわらず、適切な距離をうしなった《ぼく》は、光子のためになにごとかをしようと、《欲の皮のつっぱった業腹の兄さんの家へ行って、自分だけ親の財産をひとりじめしないで、光子と輝明にもすこし分けてやってくれ》と掛け合うため、《包丁まで買って》に出かけてしまうのだ。勿論、《ぼく》がしようとしている《この女のため》の能動的な行動など、はじめから失敗することが運命づけられている。
 光子の語る物語は、《みんな半分嘘》であり、ころころ話がかわり、内容の次元でつじつまの合うものではなかった。しかしそれは、半分は本当だということで、その本当は、彼女に繰り返し物語りを語らせる力にあり、その力は関係や因縁の複雑さを燃料としていた。しかし、《ぼく》は決してそこへ届くことはないのだ。
 光子においては、彼女に繰り返し物語らせ、泣かせる力の《本当》が、その内容や上演形態のいい加減さ、わざとらしさと常に乖離してしまうこと。《ぼく》においては、ニュートラルで受動的人物が他人の物語に染められて道を踏み外し、行為を失調させること(他人の物語を自分のものとすることこそが主体化であり、故にそれは常に失敗を運命づけられていること)。そして、《ぼく》の存在の基調をなす《恥ずかしさ》という感情(母子関係への依存と反発)。さらに、それらすべての底に横たわる、複雑な関係が堆積してうごめいている土地、血縁(世間)という世界。
 このような、これ以降の作品で繰り返し展開される、中上健次という作家を決定づけるこれらの主題群が、「蝸牛」という短編において、はじめて必然性をもった形で絡み合って形象化され展開されているように思われる。作家が、自らの運命であるような主題群に、その力に、この時、書くことを通じてはじめて明確に突き当たったのだと考えられる。
(了)

初出 「早稲田文学3」 (2010年2月)

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