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自作自演の眼差しと身体/クリント・イーストウッド『許されざる者』以降(92年から09年まで)の自作自演について

古谷利裕

1.画面の内側と外側の、どちらにもいる画家
 自分の身体のイメージが、スクリーンなりモニターなりに映し出されていることへの違和感がある。今、ここにいるはずの私が、私から分離して、そこにある画面のなかで動いていること。誰でもが、自分自身の身体イメージについては、ナルシシズムと、それと表裏一体の自己嫌悪の感情をもっているだろう。だから、モニターに映し出されている私を、そこにいる他の大勢の他人たちと同等の、そのなかの一人に過ぎないと見なすことはきわめて困難であろう。私の身体イメージはいつも、私にとっては、私の匂いが色濃く染み付いたものとしてあらわれる。それは他の人とは違った特別なしるしのついた身体なのだ。
 しかしそれは同時に、今ここにいて、空気に触れ、他者からの視線に晒されているこの私の身体からは切り離されて、私の目にも見えるものとして外在化され対象化されている。それは私でありながら私ではない。自らすすんでカメラの前に身を晒すテレビや映画の俳優として長いキャリアをもち、自分自身を一人の俳優として起用した監督作も数多くあるイーストウッドにおいてさえも、この素朴な戸惑いからは、自由ではないと思われる。
 ここでは主に、『許されざる者』(92年)以降のイーストウッドの監督・主演作について検討する予定だが(本稿は2009年に書かれたので、92年から09年まで)、その前に、八〇年代半ばに制作された、自作自演ではではなく監督のみを担当した、一つの小さな作品から話をはじめたい。スピルバーグ製作によるテレビシリーズ「世にも不思議なアメージングストーリー」のなかの1話、『ヴァネッサの肖像』(85年)だ。
 物語はきわめてありふれている。それは庭先で妻の絵を描く画家の姿からはじまる。画家は妻を深く愛し、妻の絵を多く描く。しかし妻は事故で死んでしまう。愛する妻を亡くした画家は、創作する気力も意欲も失せ、幸せな日々を思い出させる妻を描いた絵を皆焼き払ってしまう。ある日、すっかり荒んだ屋敷で酒浸りの画家が目を覚ますと、庭に妻の姿があるのに気づく。しかし近寄ると消えてしまう。その妻の幻影は、どうやら、すべて焼いてしまったと思っていた妻の絵の残された何枚かのならから出てきたものらしい。妻の幻影が絵の外にあらわれている間、絵のなかの妻の姿は消えている。そして妻は、また絵のなかへ帰る。
 妻の幻影は、絵が描かれたその場所にしか現れず、場所を移動させようとすると消えてしまう。それに気づいた画家は、妻がピアノを弾いている絵を新たに描き、その妻の隣に自分の姿をも描き込む。それによって画家は、ピアノを弾く妻の幻影の隣に佇み、妻と言葉を交わすことさえも可能になる。さらに画家は、妻とベッドを共にする絵までも描く。
 ここで面白いのは、画家と妻の幻影がピアノの傍らで話し合う時、画家の描いた絵からは、妻だけでなく「画家の姿」もまた消えているという点だ。つまり、ピアノを弾く妻は幻影であるが、その傍らで言葉を交わす画家もまた、半ば幻影と重なっているのだ。ここで画家は確かに、絵を描いた画家であるのだが、同時に、彼自身によって描かれた幻影としての画家でもある。
 このとき、絵の中から出てきた妻の幻影と(妻と自分の)絵を描いた画家が「絵の外」で会っているのか、画家自身が、自らが描いた絵の中に吸収されてしまって、二人が描かれた「絵の中」で妻と会っているのかが判然としなくなる。というよりも、絵の内側と外側の空間がよじれて、絵の外の画家と絵の内の画家が繋がってしまう妙な空間が出現する。それはたんなる自画像ではないし、ここにあるのは表象と現実との関係ではない。自らの愛の対象としての妻(の似姿)を描くのではなく、妻の傍らに自分を(ここで画家は自分からは見えないはずの自分の後ろ姿を描いているのだ)、つまり妻と自分自身との関係を描こうとしてしまった画家は、もはや「その絵を描いている自分」の存在している場所そのものを世界の外へと押し出す。自分自身がその一項である関係図を、自分の外側に描いてしまうことで、その作用により空間の論理階梯が歪むのだ。この空間(論理階梯)の歪みのなかでのみ、画家は死んだ妻のイメージをただ見るだけでなく、妻に触れることが可能になる。
 ここで、画家の妻の役を(プライベートでイーストウッドの元妻であった)ソンドラ・ロックが演じていることから、より複雑な現実とフィクションとの捩れた関係があることを(精神分析的に)予想することも可能だろうが、それはほとんどゴシップネタの範疇にあり、そこに立ち入ることはしない。ただ、そこに立ち入ることも可能であると感じられてしまうような捩じれた感触がこの作品にあるということだけを確認しておけばよいだろう。
 ここでは、映画のカメラの存在が、このような空間の捩じれをより容易に生み出すという点をこそみておきたい。しかし、カメラの前にいながらも、カメラの後ろにいることが可能であるだろうか。同時に両方にいることは出来ないが、まずカメラの前で演じ、その映像を見て演技を修正したり、あるいは編集によって事後的に加工したりすることは可能である。そしてまた、カメラの前で演じつづけた長年の経験が、映像を確認してから演技を修正するという行為を、経験によってある程度、事前に先取りすることも可能になるであろう。まずカメラの前にいて、その後に映像を見ることでカメラの後ろの視点を確保することが出来るという時間のズレによる私Aと私Bとの差異が、長年の経験のなかで、映像が出来上がった後という時点から振り返ってみるという時間が圧縮により消去されて、あたかもカメラの前と後ろとに同時にいるかのような感覚が生まれることもあるだろう。

2.イーストウッドの「眼」
 イーストウッドの顔の特徴は、まず何といってもその目にあるだろう。細くて横に長く、目蓋が狭く、その上目蓋の上の骨が前に出ているため、目玉が、つまり視線が見えにくい。角度によって、照明によって、表情によって、目はほとんど影になって見えなかったり、目がまるで傷か穴のように真っ黒にみえたり、なんとか目玉(視線)が確認できたとしても、瞳の色がよくわからなかったりする。イーストウッドの顔で、その瞳がはっきりと見える瞬間は稀なのだ。そして当然のことだがイーストウッドは自らの顔の特徴に対してきわめて自覚的であり、意図的にその目玉(視線)の見え方をコントロールしているように思われる。
 イーストウッドの顔は、しばしばサングラスをしてスクリーンにあらわれるが、イーストウッドにおいてサングラスはそれほど重要な小道具ではない。サングラスは、確かにその視線を人(観客)から隠しはするが、サングラスによって隠される視線は、まだそれほど決定的な何かを秘めたものではない(ただ、『スペースカウボーイ』においては、サングラス的主題の発展として、視線のみならず顔の表情そのものを隠し、視線の対象=地球を映し出してしまう宇宙服のヘルメットの前面の鏡面が重要なイメージとして登場するのだが)。
 真に決定的な決断がなされる時、多くの場合、その目は眼球のないただの暗い穴のようなものになってあらわれる。眼は見えるのに目玉=視線は見えない(読めない)。イーストウッドの決めの顔である、向かって左斜め前からやや仰角で捉えられる時の顔の多くは、斜め上からの照明によって目の部分は影になっている。分かり易い例としてダーティーハリー・シリーズの唯一の監督作『ダーティーハリー4』(83年)では、目が細い上に多くの場面で目元に影の落ちてるイーストウッドの顔に対し、常に驚いたように目をぱっちりと開き、暗闇のなかでもはっきりと目玉の目立つソンドラ・ロックの顔が印象的な対比として捉えられていた。しかし『許されざる者』以降の監督作品では、目の扱いはもう少し複雑なものとなる。
 『トゥルー・クライム』(99年)では、いい歳をして若い同僚を口説き、上司の妻と浮気をし、幼い娘との約束も反古にするようなだらしのない男として登場するイーストウッドは、普段あまり目立たないその目玉をあえて強調して見せているように感じられる。場面によっては、眼鏡のレンズによって目玉を強調し、また、眼鏡を浅くかけてやや上をむくような表情で目玉によく光が当たるようにしてもいる。そのフラットに光の当たった小さな丸い目玉によって、この人物はダーティーハリーと直系ではないことを示しているかのようですらある。
 しかし、この男が死刑囚と面会し、彼の話を聞くことで彼の無罪を確信する一連の切り返しのカットの連鎖においては、彼の目もとには常に影が落ち、ほとんど目玉は見えない。つまりここで、「もしかすると彼は殺っていないのではないか」という勘が、「彼は殺っていない」という確信に変化していることが、目に落ちる影で示されている。大雑把に言えば、イーストウッドが人間的な、老いを感じさせる、だらしない、コミカルな役柄を演じる時、目元に光が当てられ、細い目のなかの目玉が強調される傾向がある。『ブラッド・ワーク』(02年)そして『グラン・トリノ』(08年)等。しかし、そしてそれらの人物が「ある決断」をする瞬間に、目元に影が落ち、視線が隠される。
 『スペースカウボーイ』(00年)においては、それまで頑固一徹だったイーストウッドは、トミー・リー・ジョーンズの病気を知らされた瞬間、常に自らの背の高さを強調する彼にしては珍しく、(自分よりも背の高い)上司を見上げるようなしぐさをして「視線」をみせて、それ以降は態度をやや軟化させる。
 あるいはイーストウッドが演じているのが、近寄り難い、禁欲的な、シリアスな人物として造形される『許されざる者』では、逆に、冒頭からずっと目元に影が落ちていて目玉が見えづらい。しかし、殺しの相棒として誘おうとしたモーガン・フリーマンに「奥さんが生きていたら殺しはやらないだろう」と言われて彼を見返す時と、病気の上に保安官に殴られ蹴られして生死を彷徨っていた状態から蘇り、目の前にいる顔に傷のある女を見て「天使かと思った」と言う時には、相手を見つめるイーストウッドのその視線(目玉)がはっきりと見える。
 取り立てて目元の影が強調されるわけではない『ミリオンダラー・ベイビー』(04年)では、全身麻痺となったヒラリー・スワンクから自分を殺して欲しいと頼まれたイーストウッドが、教会の神父に相談に行き、神父に「何もせずに身を引いて、神にすべてを任せろ」と言われて、「彼女は神にではなく、俺に助けを求めている」と返す時、顔の半分が影となって、左目だけがきらりと輝く(この映画でイーストウッドの分身というか、イーストウッドを操っているとさえ言えるナレーターのモーガン・フリーマンは、片目を失明しているという設定になっている)。

3.「眼」と、法の外での決断
 このように、イーストウッドの顔の特徴である、影になりやすい目元・目玉・視線は、彼の自作自演の映画において、多くの場面で何かしらの決断や確信と密接に結びついた徴候的イメージとして現れている。このことは逆にみれば、その映画のテーマを見えやすいものとする。
 例えば『目撃』(97年)で、盗みに入った屋敷で偶然、大統領と警護官による殺人を目撃してしまった宝石泥棒のイーストウッドが、国外に逃亡しようとするとき、たまたま空港で大統領による欺瞞に満ちた記者会見を見て怒りを覚えて考えを変え、国内に留まろうと決心するのだが、この場面では特に目元に何かしらのしるしはあらわれない。つまりこの映画において真に問題なのは対大統領(権力)ではないのだ。
 『目撃』でもっとも印象的に目元に影が落ちるのは、娘からの呼び出しが録音された留守番電話を繰り返し聞いている場面だろう。ここで、呼び出しはあきらかに裏があり、罠であることがミエミエなのだが、しかしそれでもイーストウッドは「娘からの呼び出し」には応えようとする。彼は身の危険を冒してでも娘に会うために罠のただなかへ出向くことを決心する。この場面は、たんに決心だけではなく、娘との関係(約束)を何よりも優先させるという確信をあらわしてもいる。
 『目撃』におけるイーストウッドのもっとも大きな決断は、彼にとっての外傷である朝鮮戦争以来、自らに厳しく禁じていた「殺人」を、再び娘のためになら犯してしまうことを厭わないという決断だろう。『目撃』における最も大きな問題はここにあり、大統領の不正やサリバンの欺瞞などは大した問題ではない。イーストウッドは彼らに怒りを感じはするものの、たんに軽蔑の笑みを浮かべるだけだ。
 『許されざる者』以降のイーストウッドの映画に一貫して流れる最大の問題は、広義の法がその効力を失うような例外的な状況で、人が何によって自らの行為の決断を下し、それは正当化され得るものなのか、あるいはどのようにその責任を負うことが出来るのか、ということであろう。ほとんど全てのイーストウッドの作品において、このことだけが問題となっていると言っても過言ではないかもしれない。この問題はあまりに大きく、そして複雑であり、本稿でそれを充分に検討することは不可能だ。ただここでは、その決断の瞬間が常に、目という徴候的なイメージと結びついてあらわれることだけを指摘して、自作自演のテーマにもどる。

4.『マディソン群の橋』のメリル・ストリープの視線
 『マディソン群の橋』(95年)では、イーストウッドの身体は常にメリル・ストリープによって見られるものとしてあらわれる。メリル・ストリープはイーストウッドを見るが、イーストウッドによって見られた彼女の身体はこの映画では問題とならない。彼女の身体を見るのは、カメラであり監督であり観客であって、登場人物としてのイーストウッド=キンケイドではない。観客は、イーストウッドを見るメリル・ストリープの身体を見る。彼女は、写真を撮るイーストウッドを隠れて橋の影から見るのだし、隠れて、家のなかから、上半身裸で井戸水で汗を流すイーストウッドを見る。そんな彼女を監督や観客は観る。この時に、視線は一方通行のようにみえる。この映画の始めの方がポルノ的に見えるのはそのためだ。
 ただ、ある瞬間から彼女は、自分を見るイーストウッドの視線を意識するようになる場面がある。メリル・ストリープは、写真を撮るイーストウッドを橋の上から見ているのだが、彼の姿を一瞬見失う。そして、メリル・ストリープの視線が予想していたのとは逆の方向からイーストウッドが唐突にあらわれて、彼女にカメラを向けるのだ。ここではじめて彼女は、自分を見るイーストウッドの眼差しを見る(意識する)。こちら側にいると思っていたイーストウッドが、ふいにあちら側から現れるとき、一瞬、カメラの前にいて自らの身体を晒しているイーストウッドではなく、カメラの後ろ側にいてこちら側を見返しているイーストウッドが現れたかのように感じられて、観客も戸惑う。
 しかしだからこそここでの彼の眼差しは、たんなる「視線」であり、カメラのレンズのようなもので、その向こう側にあるイーストウッドの意思や欲望は問題にはならない。自らを見る他者の眼差しを意識することで、彼女は「田舎の主婦」という自分を縛っている臆見から離れ、イーストウッドの構えるカメラのレンズという架空の(無名の)眼差しのもとで、自分自身を改めて見出す機会を得る。
 この映画はあくまでメリル・ストリープの側からだけ描かれたもので、あらゆる意思的決定は彼女にゆだねられており、イーストウッドは、彼女のもとへやってきてそこから去って行く幻(あるいは、たんなるカメラ)のようなものだ。最後、雨のなかに幽霊のようにあらわれるイーストウッドを彼女はある感情とともに見ているのだが、イーストウッドが彼女をどのような感情で見ているのかは問題とはされない。その意味で、この映画は通俗的なメロドラマの範疇に収まる。
 とはいえ、メリル・ストリープだけではなく、観客さえも「そちら側にいる」と予想していた方向とは逆からあらわれるイーストウッドの身体イメージおよびその眼差しとカメラは、『ヴァネッサの肖像』で、絵の中から消えてしまっている画家の姿と、反転的に重なっているように感じられる。それはどちらも、表象される空間のなだらかな秩序を壊してしまうイメージだ。

5.あきらかに「見える」のに、「見えないということになっている」男
『 目撃』では、イーストウッドは見る男であり、見えない身体をもつかのようだ。この映画の冒頭ちかくには、視線の交錯しない切り返しがある。マジックミラー越しにジーン・ハックマンを見つめるイーストウッドの顔に対し、鏡で自分の顔を見るジーン・ハックマンの顔が対位法的に示される。
 この場面は一瞬、『パリ・テキサス』の終盤の場面を思い起こさせるが、しかし正確には、このマジックミラーからは『スペースカウボーイ』の宇宙服のヘルメットを想起すべきだろう。核を搭載した人工衛星とともに月へと辿り着いた(おそらく既に生きてはいない)トミー・リー・ジョーンズの顔は、光を反射するヘルメットに覆われていてその顔が窺えない。というよりも、宇宙服とヘルメットに覆われた、物語世界内部では生きてはいないはずの、この「人間の形をした何ものか」は、もはやトミー・リー・ジョーンズである必要はない。ただ普遍的、抽象的な「人」である誰かだ。そしてその「人」のヘルメットには、もし彼が生きているとすれば見えているはずの地球が写り込んでいる。
そ してヘルメットに映る地球のカットは、地球から月を見ているイーストウッド夫妻を捉えたカットへと切り返される。ここでのマジックミラーやヘルメットは、その背後にいる者の身体や眼差しを隠すだけでなく、背後の者の眼球そのものとなり、その鏡に反映している像が主観的カットの代替物(いわば客観的主観カット?)として、彼が見ているものそのものを提示する。鏡は、それを装着する者が見る像を映す物質となる。マジックミラーの背後の男は見るだけで身動きがとれず、月にいる誰かは既に生きていない。この、物と化した眼差しはカメラの捉える映像そのものでもあり、その背後にいる者とはカメラの後ろに立つ者でもある。だから、『スペースカウボーイ』で月から地球=イーストウッド夫妻を見ているのは、死んだトミー・リー・ジョーンズではなく、監督イーストウッドその人でもあるはずだろう。
 『目撃』でのイーストウッドは、自らの身体イメージの計測を誤っているようにすら感じられる。彼は、目立たず気配を殺し、人に見られることなく行動し、唐突に人の背後に姿をあらわしたかと思えば、多くの視線のただなかに颯爽とあらわれ、こつ然と姿を消すというキャラクターを演じる。しかし実際には、あれだけ長い手足をもつ背の高い男が目立たないはずがないのだ。
 彼は、警察が罠を張り、複数の狙撃者から狙われている人目の多い街中に娘に会うためにあらわれ、そこから、警官に変装することで「消える」ことに成功するのだが、その警官姿のイーストウッドのイメージは、まさにイーストウッドその人以外の誰でもなく、ちっとも変装になどなっていない。あるいは、運転手に変装して要人に近付く彼もまた、ちっとも運転者になど見えず、あきらかに違和感がある(みるからにクリント・イーストウッドである)。にもかかわらず、彼が「見えない(目立たない)」ことになっていて、世界からすっと消えてしまえるのは、イーストウッドが、カメラの前から後ろへ、後ろから前へと、自由に行き来できる自作自演の監督であるからに他ならないだろう。
 だからこそイーストウッドは、世界の関係の網の目のなかに安定した位置をもたない、孤立し、浮遊したキャラクターとしてカメラの前にあらわれることになる。本当のイーストウッドはカメラの後ろにいて、カメラの前の彼は、カメラの後ろの彼のまぼろしであり、アバタ―でしかないかもしれないのだ。

6.他者の傷を引き受けることと「分身」
 だとしたら、半ば映画内世界の外側にいて、映画内では幽霊のようなイーストウッドは、どのようにして映画の内部世界と結びつきを得ているのか。あるいは、どのようにその内部を生き、そこに触れ、内部への責任を負っているのか。
 イーストウッドの映画の多くには、分かり易い形で聖痕のような傷が刻まれている。この傷こそが、カメラの後ろの描くイーストウッドと、カメラの前の描かれるイーストウッドとを結びつけているように思われる。それは、イーストウッドが出演していない作品においては、例えば『ミスティック・リバー』(03年)のまだ乾燥していないやわらかいコンクリートに刻まれた痕跡のような形で形象化されているが、イーストウッドが出演している作品では、彼の身体に直接刻まれることもある。
 『許されざる者』では顔に傷が刻まれ、『ブラッド・ワーク』では心臓移植手術跡の生々しい傷痕がある。『許されざる者』以降では、自らの裸身をフィルムに刻むことが多くなり(『マディソン群の橋』『トゥルー・クライム』『スペースカウボーイ』『ブラッド・ワーク』)、自らすすんで年老いた身体イメージを晒そうとする行為そのものが、ある種の傷のような痛々しさをフィルムに刻みもする。しかし、最も多くその傷を負う支持体は、まず若い女性の身体であろう。
 実際、イーストウッドのサディスティックな趣味を疑いたくなる程に、彼の映画では多くの女性の身体が暴力を受け、傷を刻まれる。イーストウッドの映画では、観客が好感を抱くような女性は、ほとんど何かしらの傷を受けることになるといっても過言ではないだろう。『許されざる者』の娼婦、『目撃』の大統領の浮気相手とイーストウッドの娘、『トゥルー・クライム』のコンビニの店員と娘、『ブラッド・ワーク』の店員、『グラン・トリノ』の隣に住む娘、そして、その最も顕著な例が『ミリオンダラー・ベイビー』のヒラリー・スワンクだろう(『許されざる者』の娼婦たちの連帯は、イーストウッドの映画のなかで繰り返し傷つけられつづける---傷を顕在化される支持体であり媒介者である---女たちの集合的な記憶の顕在化のようであり、それはリンチの『インランド・エンパイア』の女たちを想起させもする)。
 そして、『許されざる者』の娼婦の顔の傷は、後に保安官からの暴力を通じてイーストウッドの顔に移植されることになるし、『ブラッド・ワーク』の店員の傷も、心臓移植を通じてイーストウッドの身体に引き継がれ、『グラン・トリノ』の隣の娘の受けた傷は、イーストウッドの体が蜂の巣にされることで彼のもとに引き受けられる。『目撃』と『ミリオンダラー・ベイビー』で女性の受けた傷は、イーストウッドに「法の外」の行為を、つまり「罪」という消えない傷を負うことを決意させる。イーストウッドの身体は、多くの場合、女性の受けた傷を引き継ぎ、引き受け、代替するための媒体として、そのためにこそ映画の内部にあらわれるかのようである。
 イーストウッドが「そこ」(映画内)を訪れるよりも前に、映画のなかには既に傷が刻まれており、必ずしも彼が原因だったり、彼の責任であったりするというわけではないその傷を、継承し、自らの身体にそれに受けることで、何かしらの落とし前をつけるためにこそ、彼は映画の内側に入り込むかのようなのだ。自らの位置をもたない幽霊のイーストウッドは、傷のもつ重力に惹き付けられて、そこに入り込み、傷によってピン留めされて、そこに停留する。意地悪な言い方をすれば、傷こそが彼に虚構内の居場所と存在意義を与える。だがしかし、そこは決して定住する場所ではないようだ。
 もう一つ目につくのは、『許されざる者』以降のイーストウッドの映画でのモーガン・フリーマンという俳優の特権的な役割だ。モーガン・フリーマンは、『許されざる者』では、イーストウッドに代わって罪の報いのすべてをその身で引き受けるかのように、傷だらけになって殺害される。一方、『ミリオンダラー・ベイビー』では、彼はイーストウッドの行動を裏から操作する黒幕(プロンプター)のような役割を担う。
 前述したが、『ミリオンダラー・ベイビー』では、モーガン・フリーマンはボクシングによって片目を失明したことになっているのだが、イーストウッドがヒラリー・スワンクを「殺す」決心をする瞬間、イーストウッドも顔に落ちる影によって片目になり、この二人は完全に重なる。さらにこの映画のナレーターであるモーガン・フリーマンの「語り」は、イーストウッドの娘に宛てて、彼がいなくなった顛末を説明する手紙として書かれたものだということが最後に明かされる。しかし観客は、何度も突き返される手紙を娘に書いていたのは、イーストウッド本人であることを既に知っている。
 つまり、どちらの映画でもこの二人は双子のような存在であり、一心同体の裏表で、分身であるかのようなのだ(これほどあからさまではない裏表-分身的関係は、『トゥルー・クライム』のイーストウッドと死刑囚、『スペースカウボーイ』のイーストウッドとトミー・リー・ジョーンズの間にもある)。
 分身の一方であるイーストウッドは去り、モーガン・フリーマンは残る。イーストウッドは、傷を引き受け、落とし前をつけ、分身だけを置いて去るのだ。つまり、イーストウッドの居場所はカメラの後ろであり、カメラの前は一時の仮の宿でしかない。カメラの前に残るのはイーストウッドではなく、モーガン・フリーマンなのだ。しかし、モーガン・フリーマンは、『許されざる者』では無惨な死骸として酒場の前に残されるのだし、『ミリオンダラー・ベイビー』でも、トレーナーでオーナーでもあるイーストウッドが去ってしまった後のジムに一人残るモーガン・フリーマンに付き合うのは、「ハートだけのボクサー」デンジャーくらいだろう。ボクサーたり得る身体をもたないハートだけの彼とは逆に、モーガン・フリーマンには既に魂がないかのような人である。

7. 描いている私が描き込まれる場としてのフィクション
 愛する妻のイメージを素朴に描きつづけていた『ヴァネッサの肖像』の画家は、その対象である妻の死によって、妻のイメージの隣りに自分自身をも描き込むことを強いられるようになる。
 描いている私が描き込まれる場としてのフィクション。繰り返すが、ここにある二つの私の分離は、表象と現実、あるいは認識と行為との分裂ということではない。幻の妻も、彼女に触れ得る私という存在も、私の「描く」という行為が成立させる地平にしか生み出されない。だからここで問題になっているのは、この作品の最後に示されている合わせ鏡のようなフレームの無限増殖・無限後退(メタレベルの、メタレベルの、メタレベルの…)などではない。
触れることの出来る妻をフィクションとして作り出すには、触れようと欲するその都度、妻と同時に彼女に触れている自分自身をも、新たに、フィクションとして生み出し直す必要があるということなのだ。だから画家は作品を多産し、すぐに個展が開けるほどになる。その時、作品の数だけ(「妻」ではなく)「妻に触れるための私」が増殖するのだ。
 しかし、フィクションの場にいる妻に触れるためにフィクションとして生成された私は、それを生み出す(フィクションの場を成立させようと)行為をしているその外の私とは切り離されている。「妻に触れている私」を描いている方の「私」は、妻に直接は触れてはいない。「妻に直接触れている私」と、私のアバタ―を通してしか妻と触れることの出来ない描く私。フィクションの場を生む「描く」という行為が、私を必然的に二層に分離するのだ。ここで、描く私(三人称)と、妻に触れ得る描かれる私(一人称)とをつなぐ、何かしらの紐帯が必要となるのだ。
 この分離する二層(三人称と一人称)の私の間に何かしらの重なりや通路をつくろうとする切実な欲望は、必然的にロジカルタイプを混同させ、空間の秩序を歪ませる。そこで人が生き得るフィクションの空間とは、このように、あらかじめフィクションの外側がその内側へと折り畳み、畳込まれることで、はじめから歪んでいる空間のことであり、そこではオブジェクトレベルとメタレベルという階層構造が破綻することは、はじめから、常に、運命づけられている。
 女性の身体に暴力が繰り返し訪れること、その傷がイーストウッド本人に継承されること、そこに正統な法では解決不能な問題=矛盾が浮上すること(ここで「正統な法」とはつまり、正しい論理階梯のことだろう)、プロンプターのような、こだまのような分身が生じること。
 これらのことは、フィクションを産むことと、フィクションの内部を生きようとすることとを、同時に欲する者が、いいかえれば、フィクションを産みつづけることでフィクションを生きようとする者が、フィクションを生む(描く)私と、フィクションの内部の(描かれる)私の間の紐帯を希求することによって生じる空間の歪みの結果として、フィクションの表層に必然的に生じる亀裂だろう。
そしてそれは、外側からみたフィクション(三人称)と、内側から生きられるフィクション(一人称)との差異を、その都度繰り返し越境し、短絡しようとする欲望が作動しつづける限り、今後も繰り返し刻まれるのだろう。そのような越境の作用こそが「私」と呼ばれ、あるいは、「私」を現象させる。

(了)

初出 「ユリイカ」 2009年5月号 (特集・クリント・イーストウッド)

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