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不死と死のあいだにある「個」と「性」/「スカイ・クロラ」シリーズ(森博嗣)について (1)

古谷利裕


・Prologue

 「スカイ・クロラ」シリーズは、五作の長編、刊行順に『スカイ・クロラ』『ナ・バ・テア』『ダウン・ツ・ヘヴン』『フラッタ・リンツ・ライフ』『クレィドゥ・ザ・スカイ』と、一冊の短編集『スカイ・イクリブス』からなる。作中の時間の流れは、二→三→四→五→一作目となっており、最後まで行って最初に戻る、一種の循環構造となっている。そして短編集に収められた作品によって循環が破られると考えることもできる。

 キルドレと呼ばれる、成長しない(老化しない・殺されなければ死なない)子供たちによって戦争がつづいている世界が物語の舞台となる。なお、本稿では作品の仕掛けや構造を問題としているため、ネタバレが含まれていることを予めお断りしておく。


・Episode 1 性差・個体・死

 生命体は約四十億年前に地球に出現したとされる。最初の二十億年以上の間、それは細胞内に核をもたない原核生物だった。原核生物には明確な雌雄性がなく、基本的には自分自身のDNAを複製して分裂し自己増殖をする。つまり、原核生物には「個体」がなく、よって生命そのものの絶滅以外に「死」もない(変化・進化は、DNAをコピーする時のエラーによって起きる)。その後、原核生物から進化した真核生物は、十数億年程前に雌雄性を獲得したと考えられる。体細胞から区別された生殖細胞は、体細胞の半分の染色体をもち、二つの異なる個体の生殖細胞(染色体)同士の結合によって新たな個体を生み出すことになる。雌雄性が獲得されたこの時、「個体」と「死」と「性」とが同時に誕生したと言える。

 「個体」と「死」と「性(性差)」が、同時に、互いに不可分なものとして生まれた、と考えることが出来るとすれば、老化することなく、(事故や戦死も含めて)「殺される」ことがなければ死なないというキルドレという存在は、死から遠く離れた分だけ、「個」や「性」からも遠く離れることになるはずだろう。実際、このシリーズで語られる複数の「僕」たちは皆似通っているし、性別もはっきりしない。この点が、シリーズの基調となるトーンだけでなく、シリーズ全体の構造を支える叙述トリックと深く絡んでくるのだが、そこに触れるのはもう少し後にしたい。

 作品の具体的な検討に入る前に、「不死」を巡る異なるイメージを、あと二つ提示しておきたい。

 スラヴォイ・ジジェクは、性的な生物が「性」によって失ってしまったものの想像的なあらわれをあらわす「ラメラ(薄片)」というラカンの概念について書いている(『ラカンはこう読め!』)。ジジェクは、ラメラはリビドーに実体を与える器官であるとし、それをフロイトの部分対象と結びつける。しかしそれは、チュシャ猫のニタニタ笑いのように、身体の一部であったはずの器官が、身体から切り離され身体なしにでも自立して生き続けているという魔法のような器官のイメージだとする。ラメラはゾンビのように不死のものなのだ。そしてそれを「死の欲動」と結びつける。


この盲目的で破壊できないリビドーの執着を、フロイトは「死の欲動」と呼んだ。ここで忘れてならないのは、「死の欲動」は、逆説的に、その正反対のものを指すフロイト的な呼称だということである。精神分析における死の欲動とは、不滅性、生の不気味な過剰、生と死、生成と腐敗という(生物的な)循環を超えて生き続ける「死なない」衝動である。フロイトにとって、死の欲動といわゆる「反復強迫」は同じものである。(…)この衝動は、その衝動を抱いている生体の自然な限界を超えて、その生体が死んだ後まで生き続けるようにみえる。(p 111)


 わたしが死んでも「死の欲動」は死なない。ラメラは、生命体が性差という体制を受け入れることで「失ったもの」に形を与えるイメージなのだ。ただ、精神分析で問題になっているのは、生命体が十数億年前に個体と死と性とを獲得することで不死を失ったという科学的事実ではなく、ある個体が、去勢を受け入れることで象徴的な体制に(性差とは二項対立=デジタルであり、象徴的なものだ)組み入れられたことを示しているのだが。ここで「失われたもの」のイメージは、崇高だったり深淵だったり懐かしかったりするヴィジョンとしてではなく、反復強迫(不死)としてあらわれる。

 ジジェクが例として挙げているのは、アンデルセンの『赤い靴』であり、リドリー・スコットの『エイリアン』である。「赤い靴」を履いた少女カーレンは、足首を斬り落とすまで踊ることを止められない。そして、彼女の死後も、かつて彼女の足だったものは踊りを続けているだろう。ここで不死とは、想像界に影を射した現実界のしるしであり、終わることのできないものへの恐怖としてあらわれる。

 もう一つ、まったく表情の異なる不死がある。発明家・未来学者で、グーグル社で人工知能開発をしているレイ・カーツワイルが描く技術的な不死である(『ポスト・ヒューマン誕生』)。

 カーツワイルは「技術的特異点(シンギュラリティ)」という概念を提出する。特異点という語はもともと、どこまでもゼロに近づく数で定数を割った値が爆発的に大きくなるというような、有限の限界を超える値を表わす数学上の用語だ。数学者でSF作家であるヴァーナー・ヴィンジは、機械の知能が自ら自分を書き換える(更新する)能力をもつようになると、技術進歩率が指数関数的に上昇して人間の制御を超えるとし、そのような地点を指す言葉として特異点という語を使った。カーツワイルは独自に、人類誕生以来の技術進歩の増大率を示すグラフを作成し、そのグラフの上昇カーブがほぼ垂直に見えるようになる時期を2045年頃とし、それ以降の技術進歩がどのようになるのかは(ブラックホールの事象の地平面の向こう側のように)誰も予測できないとする。これが技術的特異点だ。

 カーツワイルは、科学の様々な分野の最先端に対して恐るべき博覧強記の人物で、その知識をもとに、特異点に向かって我々を取り囲む技術的環境がどのようになってゆくのかを予測しようとする。その一つに、「人が死ななくなる」ということがある。

これにはいくつかの段階があり、まず、難病の克服と老化メカニズムの完全解明によって飛躍的に寿命が延びるという段階がある。つまり「老いること」がなくなるという。ここには遺伝子を直接書き換える操作も含まれる。気が付くと五百年、千年と生きていた、ということになる、と。次に、ナノサイズのロボットを体内に常駐させて身体メンテナンスをさせることなどを含めたサイボーグ化の段階がある。ここでは、例えば自力運動性をもつナノテク人工血液がつくられれば、血液を体中に送る一点集中的なポンプ型の器官である「心臓」はそもそも必要なくなる(よって、心臓疾患のリスクもなく人工心臓も必要ない)、ということまで言われている。自分の身体や脳を少しずつ取り替えてゆけば、「わたし」の連続性を保ったまま、完全に人工的な身体と脳に入れ替わった「機械のわたし」に成ることができるとする。そもそも新陳代謝というのはそういうことではないか、と。そして最終的には、意識のコンピュータへのアップロードという段階に至る。

 ただここで、仮にコンピュータによって「わたし」が完璧に再現されたとしても、それは「このわたし」とは違う、「もう一人のわたし(あいつ)」なのではないか、という疑問が生じる(「パーマン」のコピーロボットを果たして「わたし」と言えるのか)。驚くことに、カーツワイルはこれらのことを遠い未来の話ではなく、あと三十年くらいの間に実現されることとして予測している。

 ひとつ忘れてならないのは、仮に意識のアップロードに成功したとしても、それをもって不死とすることは出来ないということだ。デジタル的な記憶媒体は一般にアナログ的媒体よりも短命で弱い。USBメモリに保存された文字は、紙に印刷されたものよりもずっと脆弱であるし、ハードウェアどころか、ソフトウェアの変化によって読み込めなくなるかもしれない。


(…)数十年の考察ののちにわたしが得た結論は、今後数十年間、格納した情報に(途方もない努力を要せず)アクセスできると確信できるハードウェアやソフトウェアは今日存在せず、今後も出現しそうにない、ということだ。わたしのアーカイブ(あるいは他の情報ベースでも)を価値あるままに保つ唯一の方法は、継続的にアップグレードし、最新のハードウェアやソフトウェアへ移行しておくことだ。もしアーカイブをほったらかしにすれば、最後にはわたしの古い八インチのPDPフロッピィディスクのように、アクセス不能になるだろう。

情報は「生きて」いるため、継続的なメンテナンスとサポートを必要とし続ける。データであろうと知恵であろうと、情報はわれわれがそれを望むときのみ生き延びられる。(p 427-428)


 例えば「攻殻機動隊」シリーズでは義体メンテナンスの場面が繰り返し描かれる。情報化した「わたし」が不死であるためには定期的で継続的なメンテナンスとアップグレードが必要であり、それが可能な位置にいる特権的な人にのみ「不死」は与えられることになる。特別な金持ちや社会的に高い価値を認められた人にのみ「不死」が与えられ、貧乏な人たちは死ぬだろう。


・Episode 2 二つの読み方

 「スカイ・クロラ」シリーズには二つの読み方がある。ここで読み方とはたんに順番のことだ。執筆、刊行された順番で読むか、作中時間の順番で読むのか。

 作者はどちらかと言えば作中時間に沿って読むことを勧めているようだが、ここでは執筆順に読むことを前提に考えたい。それによって、一作目の『スカイ・クロラ』という同じ作品を二通りの読み方(解釈)で読むことになるからだ。まず、カンナミ=クリタとして、そしてシリーズをすべて読み終えた後、それがクサナギ=カンナミへと変化する。最初の読み方ではカンナミは不在であるものの代理であるが、二つ目の読み方では二人へと分岐したクサナギ(「クサナギ=カンナミ」と「クサナギ」)が、メビウスの輪の接合部分のように対面する話という読みになる。そして、同じ作品に「(カンナミ=クリタ)+クサナギ」「(クサナギ=カンナミ)+クサナギ」という二つの異なる読み方が(間に時間を挟んで)重ね描きされることで、シリーズに循環、あるいは螺旋状と言うべき構造が生まれる。

 シリーズを一通り通り過ぎた後に再び『スカイ・クロラ』を訪れる時(再読しないとしても、思い返す時)、既にクサナギと長い時間を過ごしている読者はおそらく「新たにカンナミとなったクサナギ」と共にそこを訪れ、「過去のクサナギ」として作品世界のなかに留まっているクサナギ(もう一人の自分)と再会するという感覚をもつだろう思われる。《一見、二十代の後半に見える》と書かれるクサナギ(しかも酒を飲む)は、あるいは脱キルドレ化したまま歳を重ねた、もう一人のあり得たクサナギの可能性なのかもしれない。これは、デイビィッド・リンチ『ロスト・ハイウェイ』で、作中の時間を経験し、他の人格への変身も経験した主人公が、ラストになって再び作品のはじまりの地点に戻り、まだ何も知らない過去の自分自身へ向かって「ディック・ロラントは死んだ」と語りかける、あの感覚に近いだろう(作者は『ロスト・ハイウェイ』からの影響を言及している――「ダ・ヴィンチ」二〇〇八年八月号)。

 一番新しい時間と一番古い時間とが重なり合うこの感覚は、このシリーズにおいては、作品を読む順番と、作品内の時間の流れが食い違うことによって生じる。読者は、永劫回帰のようにまったく同じ出来事(一字一句として違わない文章)を、異なった経験(解釈)としてもう一度生き直す。

 そして、まさにこのような経験こそが、キルドレたちが生きている感触に近いものと言えるのではないか。


・Episode 3 キルドレにおける女性と男性

 男性パイロットたちには、戦闘から無事帰還した後、娼館のような店へと女性に会いに行く習慣があるようだ。しかしキルドレであるパイロットはそこで一体何をしているのだろうか。『スカイ・クロラ』でトキノとカンナミの部屋を一人で訪れたクサナギの妹(ミズキ)は、男性パイロットは「そういった気持ちは湧かない」人たちと聞いているから男の部屋でも《怖くなんてない》と言う。『ダウン・ツ・ヘヴン』でカンナミは、「繰り返し夢に出てくる大切な人(女性)」を《自分のものにしたい》と思ったことはないのかとクサナギから問われ、「自分のものにする」ということの意味が分からないと応える。どうも彼らには性欲というものがないような気配がある。

 対して、女性でキルドレであるクサナギは、自ら進んでカンナミに口づけをしたり、非キルドレであるティーチャとセックスして妊娠したりする。また、夢の中の女性やヒガサワに、ごく淡いものではあるが嫉妬に近い感情を抱きもする。『フラッタ・リンツ・ライフ』でクサナギは、娼館の女フーコと会った後に死んだ同僚の恋人だった女性(サガラ)に会いに行くクリタに対して、《女と寝たあとに行けるという神経は感心する》と嫌味を言うのだが、クリタはそれに対し《よく、そんなこと思いつきますね》と応える。この会話をみると、「女と寝る」という言葉の意味(あるいは「重み」)がクサナギとクリタとでは食い違っているのではないかとさえ感じられる。まるでキルドレにおいて「性」をもつのは女性のみであるかのようだ。

 だがこれはやや誇張した見方で、キルドレの男性たちであっても、娼館へ女性に会いにゆくのだからおそらくセックスしているのだろう。しかしそれは、通常の大人の男性の習慣を「形として」なぞっているだけなのではないか。彼らはとりあえず「男性」というカテゴリーで社会のなかにいるから「男性の習慣」を踏襲し、意識的に身に纏っているだけだ、と(例えば『フリッタ・リンツ・ライフ』でのクリタの「愛情」に関するモノローグには性的な気配がほとんどない)。

 『スカイ・クロラ』に、パイロットのうちの女性の割合はおよそ二割だと書かれている。これがキルドレの女性率を正しく反映しているかは分からないが、キルドレにおいて女性が希少な存在であることの現われとは言えるだろう。つまりキルドレは基本的に男性≒無性であり、稀な例として、積極的に「性」をもつ女性が現れる、と考えられる。キルドレで女性であることはイレギュラーなことであり、「性」の成分を濃く持つ分だけ男性キルドレよりも「個」と「死」に近い位置にいるのではないか。


(2)へつづく 

初出 「ユリイカ」2014年11月号


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