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「わたし」と「あなた」と「ここ」と「そこ」/山下澄人『壁抜けの谷』書評

古谷利裕

 ポケットのなかにはビスケットがひとつ/ポケットをたたくとビスケットはふたつ/もひとつたたくとビスケットみっつ……。そんな「ふしぎなポケット」(まどみちお作詞、渡辺茂作曲)に穴があいていたとしたらどうでしょうか。ポケットのなかのビスケットはどんどん増殖するのですが、増えたそばから一枚、また一枚とビスケットは零れ落ちてしまうでしょう。ポトポトとビスケットを落っことしながら歩いていて、しばらくすると自分が落としたビスケットに気づき、それを拾ってまたポケットに入れますが、その間にもビスケットは落ち続けています。そしてどうやら、穴のあいた魔法のポケット付きの服で練り歩いているのは「わたし」一人ではないようです。

 いろいろ忘れながら進んでゆき、時々忘れたことを思い出し、思い出したことを忘れてゆく。「わたし」のポケットにはいつしか「わたし」ではない人の落としたビスケットも混じり込み、しかしそれもいつかは落っことすでしょう。ポケットの中味は、誰のポケットで生み出され、誰が落としたものか区別がつかないビスケットたちで構成されるようになります。この小説をそのようなものとして読みました。

 わたしAにとっての「ここ」は、あなたBにとっては「そこ」です。そして、わたしBにとっての「ここ」は、あなたAにとって「そこ」です。「これ」と「それ」、「この」と「その」、そして「わたし」と「あなた」。指示代名詞のこの自明な距離感は、しかし本当に自明なのでしょうか。わたしにとって「ここ」が「そこ」とは違うと自信をもっていえる根拠はどこにあるのでしょう。根拠は「わたしがいる」ということです。わたしのいる場所が「ここ」なのです。しかし「わたしがいる場所」は揺るぎないでしょうか。

 ヴァーチャル・リアリティ(Virtual Reality)とは、「実在はしていないが効果や機能として実在していると同等とみなせるもの」を意味します。実在と同等といえる仮想空間への身体的な没入を可能にするために、自分を自分だと感じるのに必要な要素が研究されています。それには、自己所有感と運動主体感、そして視覚と運動主体感の同期が必要だと言われています。「ここ」という概念は、自分の身体を自分が所有しているという自己所有感によって可能になります。しかし、この自己所有感は絶対のものではありません。視覚と運動主体感との同期を上手く利用することで、「わたし」という感覚を自分の身体の外へと「飛ばす」ことが可能だという実験が報告されています。「ここ」が「そこ」に飛ぶのです。

 時空のなかのある一点を「ここ」としてマークする作用が「わたし」だと言えます。「ここ」は必ずしも「わたしの身体」のある場所とは限りません。わたしの感覚やわたしの思考が生起する場所も「ここ」だと言えるはずです。しかし、「わたしの思考」のある場所をどこかに特定することができるでしょうか。わたしが、遠くにいるあなたについて考える時、「その思考」はどこにあるのでしょう。あるいは数学の問題を解いている時は? 思考が脳によって可能なのだとしても、脳の機能によって生まれた思考という出来事までもが脳の場所にあるとは言い切れません。歯が痛いという現象は脳がつくり出していますが、痛いのは歯です。

 道端に落ちているビスケットを発見することの意外性と、三年前に食べたビスケットをふいに思い出してしまうことの意外性は、予測のつかなさという点で同等であり、どちらも「ここ」に現れた現在の出来事であるという点でも同等です。三年前のビスケットをふいに思い出すという出来事を、思い出すわたしと思い出されるわたしの対話と考えることもできます。「自分、三年前にビスケット食べたよな」「え、なんだよ藪から棒に」、と。この小説には、このような「え」の感じが頻出しています。

 この小説は、一面ではポケットのなかのビスケットの自己増殖です。記憶が勝手に思い出し、思考が勝手に思いつき、記憶のなかの誰かが勝手に喋り出して、それらが勝手に組み替えられていって、それに「わたし(ここ)」が応えるようにして記述が動いてゆく。この小説が、特定の場所、時間をほぼ完全に消失させているのも、小説の持続を支えるのが、想起する(記述する)ことの現在性だからでしょう。思いついてしまった今、書いている今、に生まれつつある新鮮さや驚き、意外性が、読者の読んでいる今を成立させています。この小説の特異性を示す、場面の移り行く感じに対する執着のなさ、徹底した場所と時間の消失はそれだけで驚くべきことでしょう。

 しかし、このような時間や場所の解体は、「ここ」の持続によってこそ可能になっています(AもBもCも皆「わたし」)。つまりこれだけでは「ここ」という基底面(「わたし」というシステム)そのものは揺らぎません。この小説(山下澄人という作家)の野心は、この基底面そのものを揺るがすことだと考えます。

 この小説は二つの「わたし」が互いの夢を覗き合うかのような構造をもつと考えられます。袋Aのなかに袋Bが内包された状態と、袋Bのなかに袋Aが内包された状態が何度も反転します。魔法のポケットが二重化されているのです。これはたんなる入れ子構造ではなく、Aにとっての内側がBにとっての外側であり、Bにとっての内がAの外なのです。袋がひっくり返る度に内と外とが二重に入れ替わることで「閉じること(内)と開くこと(外)の違い」の底を抜いてしまい、ビスケットがポケットの内にあるのか外に落ちているのか決定できなくなります。

 さらに、一方のわたしが「ぼく(語り)」と「武藤(対象)」に、他方のわたしが「翠(母)」と「カエデ(娘)」に分裂することで、ポケットはビスケットを収納する輪郭(ここ)を失い、「わたし」は、様々なビスケットの組み合わせがその都度生起させる仮の形象に過ぎなくなります。ここまで行っていることがすごいです。

(了)

初出 「文學界」2016年11月号

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